| メンバー | 担当 |
|---|---|
| モリタナオヒコ | ボーカル・ギター |
| アサノケンジ | ボーカル・ギター |
| ヨシダタカマサ | ベース |
| オオイナオユキ | ドラム |
TENDOUJI(テンドウジ)は、千葉県松戸市で育った幼なじみが、2014年に結成した4人組ロックバンドです。
メンバーは中学生の頃からの仲間。しかし、若い頃から本格的なバンド活動に打ち込んできたわけではありません。一度はバンドを始めようとして実現せず、20代後半になって、ようやく同じ仲間と音楽を始めました。
長年の友人に「バンドをやろう」と言い出すのが恥ずかしかったこと。深夜のファミリーレストランで初めて作った曲を聴かせ合ったこと。ドラムを一度も叩いたことのない後輩を迎え、4人で音を鳴らし始めたこと。
TENDOUJIの音楽には、そんな少し不器用で、具体的な始まりがあります。
結成のきっかけから初期の音源制作、自主レーベル設立、ライブを通じた音楽性の変化まで、その歩みをたどります。
| 音楽史の段階 | TENDOUJIの歩み |
|---|---|
| 音楽の原点 | 松戸で育った仲間が、それぞれギターや好きな音楽に触れる |
| 結成前 | 20代前半に一度バンド活動を試み、オリジナル曲を制作する |
| バンド結成 | 2014年3月に3人で活動を始め、同年にオオイナオユキが加入 |
| 初期活動 | 自主制作デモを無料配布し、2015年に1st EPを発表 |
| 活動の本格化 | 2016年に自主レーベル「浅野企画」を設立し、2017年に1stアルバムを発売 |
| 重要な転機 | 海外フェス出演や自主企画を経て、ライブとともに音楽性を発展させる |
松戸のサッカー仲間が音楽に触れた学生時代
TENDOUJIの4人が出会った場所は、千葉県松戸市です。
モリタナオヒコ、アサノケンジ、ヨシダタカマサは同級生。オオイナオユキは1学年下の後輩でした。
アサノとヨシダは小学校からの付き合いで、モリタも小学生の頃にサッカークラブを通じてアサノと知り合っています。中学校ではサッカー部の仲間となり、卒業後も交流が続きました。
ただ、当時の4人を結びつけていたのは、バンド活動ではありません。サッカーやフットサル、地元での遊びなど、日常を共有する友人関係が先にありました。
小学生時代のギター経験と家族の楽器
2019年のMasteredのインタビューで、アサノはヨシダとともに小学生の頃からクラシックギター教室に通っていたと振り返っています。
ヨシダは高校時代にもロック部に所属しており、4人の中では比較的早くから楽器に触れていました。
一方、モリタの身近にあったのは、姉が所有していたGLAYのギタリスト・HISASHIモデルのギターです。
姉がGLAYのファンだったことから家にギターがあり、モリタも遊びで触っていました。しかし、人前で本格的に演奏する経験はほとんどなく、バンド結成を機に練習を始めたと語っています。
オオイはさらに異なります。ドラムに初めて触ったのは、TENDOUJIに加わるためにスタジオへ行ったときでした。
楽器を習っていたメンバーもいれば、担当する楽器にまったく触れたことのないメンバーもいる。TENDOUJIは、豊富な演奏経験を持つ4人が集まって結成されたバンドではありませんでした。
コピー演奏と4人が聴いていた音楽
高校時代には、仲間でスタジオに入り、MONGOL800のコピーを演奏することもありました。ただし、あくまで遊びの延長にある活動で、継続的にオリジナル曲を作るバンドには発展していません。
音楽の好みも、4人全員が完全に一致していたわけではありません。
2016年のSpincoasterのインタビューで、アサノはNIRVANA、Oasis、THEE MICHELLE GUN ELEPHANT、Dragon Ashなどを聴いていたと説明しています。
オオイは当時、洋楽よりも日本のヒップホップをよく聴いていたと語っていました。
その一方で、Dragon Ashはメンバーに共通する好きな音楽のひとつ。後年のHypebeast Japanのインタビューでは、NIRVANAやTHE BEATLESも4人がよく聴いていた音楽として挙げられています。
特にNIRVANAについて、アサノは、聴いていると自分たちにもバンドができるのではないかと感じたことを明かしています。
高度な演奏技術を身につけてからではなく、自分たちにも音楽を始められるかもしれないと思えたことが、バンド結成への後押しになっていました。
結成10周年を迎えた2024年には、TENDOUJIの公式Xでも、バンドが影響を受けた音楽をまとめたプレイリストが紹介されています。
20代後半にTENDOUJIを結成した理由
長年の友人同士だった4人は、なぜ20代後半になって初めて本格的なバンドを組んだのでしょうか。
その理由は、音楽が好きだったという単純な話だけではありません。
2019年のCINRAのインタビューで、モリタは、自分が聴きたいと思う音楽を自分たちでも作りたかったことを説明しています。また、仲間とフジロックに出かけた経験も、実際にバンドを始めようと決心するきっかけのひとつになりました。
アサノにとっては、好きな仲間と一緒に楽しい時間を過ごすことも大きな動機でした。
友達といられるなら居酒屋でよかった
アサノケンジ/出典:CINRA「TENDOUJIの友情と音楽の物語。何者かになりたくて、あがく人へ」(2019年)
仲間と一緒にいたい気持ちと、自分たちの音楽を鳴らしたい気持ち。その両方が、TENDOUJIの結成につながっていました。
23歳頃の挑戦と、バンドを始められなかった時期
実はTENDOUJIの結成より前に、モリタとアサノたちは一度バンド活動を始めようとしたことがあります。
2019年のCINRAでメンバーが振り返ったのは、23歳頃の出来事です。
当時、アサノは自分の生活や将来を考え、モリタとバンドを始めようと話しました。すると友人が地元のライブハウスに連絡し、ほとんど準備もできていないうちにライブが決まってしまいます。
そこで演奏したのはNIRVANAのコピーでした。
その経験をきっかけに、今度は自分たちのオリジナル曲を作ろうという話になります。
ただ、長年一緒に遊んできた友人同士だからこそ、真剣に音楽へ取り組むことには気恥ずかしさもありました。
Masteredのインタビューでは、モリタが、仲の良い友人へ改まってバンドをやろうと誘うことの恥ずかしさを説明しています。アサノも、互いにバンドをやりたがっていることは長年感じていたものの、なかなか言葉にできなかったと振り返っていました。
若い頃から同じメンバーで活動していたのではなく、音楽を始めたい気持ちがありながら、友人関係の中で踏み出せない時間が長く続いていたのです。
深夜のガストで初期のオリジナル曲を聴かせ合う
23歳頃の挑戦で生まれた、TENDOUJIの音楽史に残るエピソードがあります。
モリタとアサノたちは、それぞれが作ったオリジナル曲を持ち寄り、深夜のファミリーレストラン「ガスト」で聴かせ合うことにしました。
アサノによると、モリタが作ったのは「HAPPY MAN」、自身が作ったのは「LIFE-SIZE」でした。
いずれも、後のTENDOUJIの活動につながる楽曲です。
ところが、ヨシダがテープレコーダーで持参した曲は、モリタやアサノが期待していたものとはまったく違いました。
ヨシダが作っていたのは、映画館「MOVIX」のテーマソングをふざけて歌ったような曲だったのです。
モリタとアサノは、本気でバンドを始めたいと思って曲を作ってきただけに、その温度差に落胆したと語っています。
このときは、継続的なバンド結成には至りませんでした。
しかし、ここで作られた「HAPPY MAN」と「LIFE-SIZE」は、その後のTENDOUJIの作品にもつながっていきます。
正式な結成より前に、すでにバンドを形づくる曲の種が生まれていたことが分かる出来事です。
3人から始まり、ドラム未経験のオオイナオユキが加入
20代後半になった頃、モリタは再び本格的なバンド結成を考えるようになります。
2026年のHypebeast Japanのインタビューでは、モリタが、この時期を逃したらもうバンドはできないのではないかと感じたことを明かしています。
改めて声をかけた相手は、やはり長年の友人たちでした。
2019年のCINRAでモリタが振り返ったところによると、ヨシダを誘うと、今度はヨシダが翌日に仕事を辞めてきたといいます。
かつてガストで曲を聴かせ合ったときとは違い、今度は本当にバンドを始めるために動き出しました。
2016年のSpincoasterのインタビューで、アサノは2014年3月にアサノ、モリタ、ヨシダの3人で活動を始めたと明言しています。
その後、ドラム担当として加わったのが、1学年下の後輩だったオオイナオユキです。
オオイは当時、ドラム経験がありませんでした。それでも声をかけられると参加を決めます。2016年のインタビューでは、加入前からメンバーがYouTubeにアップロードしていた音源を聴いていたことも明かされています。
2019年のMasteredでアサノは、最初の3人でバンドを組んでから、およそ半年後にオオイを迎えたと説明しています。
また、後年のHypebeast Japanでは、オオイ加入前に経験豊富なドラマーへサポートを頼んだこともあったと語られています。
演奏が上手な人と合わせても、なぜかしっくりこなかった。それに対して、ドラム未経験だったオオイと初めて合わせたときには、自然に演奏が合う感覚があったそうです。
技術だけでは説明できない相性が、長い付き合いの4人にはありました。
モリタは、その関係を振り返り、次のように語っています。
この4人であることが自然なんですよね。
モリタナオヒコ/出典:Hypebeast Japan「TENDOUJI ── 28歳で始めた4人のバンドマンが武道館に立つまで」(2026年)
こうして、2014年にTENDOUJIの4人編成が成立しました。
その結成史を、バンド自身が振り返る公式ドキュメンタリー映像でも確かめられます。
バンド名TENDOUJIの由来と最初の音源
4人で音楽を始めるにあたり、避けて通れなかったのがバンド名を決めることでした。
長年の友人同士だったからこそ、誰かが格好つけた名前を提案すると、ほかのメンバーにからかわれるかもしれない。そんな気恥ずかしさがあったと、モリタは振り返っています。
ところが、実際の命名には、深い音楽的な意味や理念が込められていたわけではありませんでした。
中島らもの小説から生まれたバンド名
TENDOUJIという名前の由来は、作家・中島らもの小説に登場する「天童寺」という人物です。
2016年のSpincoaster、2019年のMastered、2026年のHypebeast Japanで、モリタ自身がその経緯を説明しています。
初めてライブへ出るにはバンド名が必要です。しかし、仲間同士でどのような名前を付けるか決めるのは簡単ではありませんでした。
そんなとき、モリタが読んでいた中島らもの小説の登場人物が「天童寺」でした。
その名前を気に入ったモリタが、ほかのメンバーにTENDOUJIという案を提案したのです。
ただ、メンバーの反応は大きなものではありませんでした。モリタも、最初から強い愛着があったわけではなく、名前に特別な意味はないと語っています。
2026年のインタビューでは、電車の中でモリタがバンド名を提案した場面について、ヨシダも記憶を語っています。
実は、学生時代から続けていたフットサルチームには「FC柑橘類」という名前があり、アサノはそのままバンド名になると思っていたこともあったそうです。
一方のモリタは、その名前を引き継ぎたくなかったと説明しています。学生時代の自分たちの考え方から離れ、新しく活動を始めるうえでも、別の名前を付けたかったのです。
こうしてTENDOUJIという名前が定着しました。名前に後付けの壮大な意味を持たせるのではなく、当時の仲間内のやり取りから生まれたことが、その由来です。
初ライブと3曲入り『1stDEMO』
2014年の結成後、TENDOUJIは早い段階でオリジナル音源の制作に取りかかりました。
2016年に公開されたSpincoasterの当時のプロフィールによると、結成から約1か月で3曲入りの『1stDEMO』を制作しています。
この音源は、CDショップやライブハウスなどで無料配布されました。配布枚数は1,000枚以上に達したと紹介されています。
まだバンド活動の進め方も十分に分かっていなかった4人でしたが、曲を作り、音源にして、実際に人へ届けるという活動を結成直後から始めていました。
ライブ活動についても、最初から自信があったわけではありません。
Masteredのインタビューでは、モリタが当時の初ライブを振り返り、演奏経験が乏しかったために怖さを感じたと語っています。
2026年のHypebeast Japanでも、初期の演奏映像を見返すと技術的に未熟だったことが分かると話しています。
それでも、メンバーたちは演奏が下手なことに強い劣等感を抱いていたわけではなかったそうです。
当時の東京では、ライブハウスだけでなくDJイベントやパーティーにもバンドの出演機会がありました。
TENDOUJIも「JUKEBOX」「New Action!」などのイベントへ出演し、そうした場所で音楽を鳴らす機会を増やしていきます。
結成前の限られたコピー演奏から、オリジナル曲を作ってライブハウスへ出演するバンドへ。2014年は、その活動が具体的な形になった年でした。
自主レーベル「浅野企画」と初期作品の誕生
初期のTENDOUJIは、バンド活動の経験がほとんどない状態から、音源制作やライブ活動の方法を一つずつ覚えていきました。
その一方で、作品をどのように世の中へ届けるかについては、自分たちなりの考えを持っていました。
メンバーが作った曲を、自分たちで選び、完成させ、発売する。そうした活動を進める中で、2016年には自主レーベルの設立にも踏み出します。
『Pretty! Pretty!! Pretty!!!』から『breakfast』へ
2015年9月、TENDOUJIは1st DEMO EP『Pretty! Pretty!! Pretty!!!』をリリースしました。
2016年のSpincoasterのインタビューによると、この作品は取り扱い店舗で完売が相次ぎ、メンバーの周囲にも少しずつ変化が生まれました。
モリタは、EPを出した頃から、観客や友人など、活動に関わる人が増えていったと振り返っています。
以前から知っていたバンドと対バンする機会も生まれ、ライブ活動は広がっていきました。
そして2016年4月、TENDOUJIは自主レーベル「浅野企画」を設立します。
その理由について、同年のSpincoasterでアサノは、ほかのレーベルと契約して作品を制作・発売するまでに時間がかかることや、収益の配分などを現実的に考えた結果だったと説明しています。
レーベルに所属すること自体を否定していたわけではありません。できるだけ早く活動を前進させ、自分たちで収益を得られる方法を選びたかったのです。
また、活動を通じて、アートワークや映像制作について相談できる仲間も増えていました。
そうした人たちの力を借りながら、自分たちでレーベルを運営することを決めました。
2016年6月29日には、2nd EP『breakfast』を発売。発売元は浅野企画で、流通はSPACE SHOWER MUSICに委託する形を取っています。
自分たちで作品を作り、発売の仕組みも考える。この時期のTENDOUJIは、演奏だけでなく、バンドを継続するための方法も身につけていきました。
ボイスメモから4人で曲を完成させる制作方法
初期のTENDOUJIの曲作りは、パソコンで細かく楽曲を組み立てる方法ではありませんでした。
2016年のSpincoasterで、アサノは当時の制作方法を詳しく説明しています。
まずモリタかアサノがアコースティックギターでメロディーを作り、歌詞がまだ付いていない状態でスマートフォンのボイスメモに録音します。
その音源をスタジオへ持っていき、ヨシダがベースを考え、オオイにはドラムのイメージを伝えながら、4人で曲を形にしていく方法でした。
曲を持ち込んだモリタかアサノがリードボーカルを担当することも、初期の基本的なスタイルでした。
ただ、メロディーを作れば、必ず作品として完成させたわけではありません。
スタジオで合わせてみて、どうしても良い曲にならないと感じたものは、それ以上作り込まずにやめることもあったと語っています。
その判断で重視していたのがメロディーです。
やっぱりメロディーが全てだよね。
アサノケンジ/出典:Spincoaster「Interview / TENDOUJI」(2016年)
モリタはNIRVANAのアコースティックなデモ音源を好んで聴いており、良い曲ならアコースティックギター1本でも魅力が伝わると考えていました。
一方、ギターリフについては、モリタが鼻歌で思いついたフレーズをボイスメモに残し、それをギターの音に置き換えることが多かったそうです。
こうした制作方法がよく分かるのが、EP『breakfast』に収録された「Orangejuice」のエピソードです。
この曲は、レコーディング前になって、それまで演奏していたリフがしっくりこないという問題が起きました。
一時は収録をやめる話まで出ましたが、ヨシダの家に集まったモリタ、アサノ、ヨシダの3人で考え直すことになります。
ところが、アサノは途中で飽きてしまい、携帯ゲームの「桃太郎電鉄」で遊び始めました。
その間もモリタはリフを考え続け、ようやく新しいフレーズを完成させます。
しかし、そのリフを聴いたほかのメンバーからは、ゲームの音楽のようだと笑われたそうです。
それでも完成したリフは、作品に残りました。
楽曲名の決め方にも、同じような独特のやり取りがありました。
初期のデモをDropboxで共有するとき、まだタイトルのない曲にも保存用のファイル名が必要になります。
そこでモリタが適当に打った文字列が、そのままメンバー内で曲の呼び名として定着し、正式タイトルにつながることもありました。
「Venz_O」は、その代表的な例です。
モリタは当初、もっと長く真面目なタイトルを考えていたものの、ほかのメンバーに受け入れられず、結局その呼び名が採用されたと振り返っています。
メロディーの良さを厳しく判断する一方、アレンジや命名では4人の自由な発想を生かす。初期のTENDOUJIの制作には、そんな特徴がありました。
なお、これらは2016年当時の制作方法です。後年の公式プロフィールでは、メンバー4人全員が作詞・作曲を行うことも紹介されており、初期の2人を中心とした作曲体制と、後年の活動をそのまま同一視することはできません。
初の全国流通フルアルバム『MAD CITY』へ
自主制作とEPの発表を重ねたTENDOUJIは、2017年8月9日、1stフルアルバム『MAD CITY』を発売しました。
2016年の『breakfast』ですでに流通盤を発表していましたが、『MAD CITY』は初めての全国流通フルアルバムとなります。
全13曲を収録し、新曲に加えて、初期から演奏してきた「HAPPY MAN」「THE DAY」「GROUPEEEEE」なども再録音されました。
結成前に生まれた曲や、活動初期からライブで演奏していた曲が、まとまったアルバムの中に収められたのです。
アサノは発売に際して、結成当初に思い描いていたことが、3年半ほどかけてようやく形になったという趣旨のコメントを発表しています。
当初は演奏経験も音楽制作の知識も十分ではなかった4人にとって、フルアルバムを完成させたことは、大きな到達点でした。
この作品の発売に合わせて全国8か所を回るツアーを行い、2017年11月22日には新宿MARZで初のワンマンライブを開催しています。
結成から数年をかけて、自主制作のデモを配るバンドから、アルバムを発表して全国を回るバンドへと活動を広げていきました。
ライブとともに変わっていったTENDOUJIの音楽
TENDOUJIは、初期から同じ音楽を演奏し続けてきたわけではありません。
活動を重ねるうちに、曲のテンポや演奏の仕方、観客との向き合い方にも変化が生まれました。
その変化に大きく関わっていたのが、ライブ活動でした。
SXSWとTEENAGE FANCLUBの公演を経て広がった活動
2017年の『MAD CITY』発売後、TENDOUJIは国内外で活動の場を広げていきます。
2018年3月には、アメリカ・テキサス州オースティンで開催される音楽イベント「SXSW」に出演しました。
同年には国内の「RUSH BALL」「BAYCAMP」などにも出演し、ライブを中心に活動を続けていきます。
2019年には、スコットランドのロックバンドTEENAGE FANCLUBの来日公演でサポートアクトを務めました。
同年のFUJI ROCK FESTIVALにも出演しています。
フジロックは、2016年のSpincoasterのインタビューでアサノとモリタが出演したい場所として挙げていたイベントでもあります。
バンドを始める以前には観客として訪れ、音楽をやる決心のきっかけにもなった場所。そのステージに、今度は出演者として立つことになりました。
ただし、TENDOUJIの認知が広がった理由を、特定のフェス出演だけで説明することはできません。
2026年のHypebeast Japanで、モリタは初期の活動を振り返り、深夜のDJイベントやパーティーへの出演が大きかったと話しています。
新宿の「New Action!」など、すでに多くの観客が集まっているイベントで演奏すると、会場が盛り上がる。その光景を収めた映像が広がり、TENDOUJIのライブを知る人が増えていったのではないかと振り返っています。
アサノも、BAYCAMPのようなDJイベントの空気を持つフェスが、自分たちと相性の良い場所だったと語っています。
大きな舞台への出演だけでなく、ライブハウスやパーティーで観客と一緒に盛り上がる経験を積み重ねたことが、活動の広がりにつながっていました。
ライブで速くなった曲と、変わらないメロディー重視
ライブの経験は、TENDOUJIの音楽そのものにも影響を与えました。
2026年のHypebeast Japanのインタビューで、モリタは、結成初期には速い曲がほとんどなかったと明かしています。
ところが、ライブを重ねるうちに、演奏は録音された音源よりも自然に速くなっていきました。
会場が盛り上がり、メンバーの演奏も前のめりになる。その経験を繰り返すうちに、レコーディングで作る楽曲にも速い曲が増えていったと説明しています。
つまり、単に激しい音楽を目指して曲調を変えたのではなく、ライブで実際に起きていた変化が、スタジオで作る作品へ持ち込まれていったのです。
一方、変わらなかった部分もあります。
それがメロディーを重視する姿勢です。
2016年にアサノが説明していたメロディー優先の考え方は、2026年のモリタの発言でも一貫しています。
演奏技術が向上し、録音方法を覚え、曲のテンポが変わっても、メロディーの良さを大切にする感覚は保たれていました。
ライブの楽しさについても、2019年のCINRAでメンバーは興味深い考えを語っています。
モリタは、観客に手を挙げることや決まった動きを強制するライブが苦手だったと説明しています。
自分たちのステージでは、観客に自由に楽しんでほしい。その姿勢がTENDOUJIのライブにつながっていると考えていました。
同じインタビューで、メンバーは、初期には自分たちが楽しく演奏することを大切にしていた一方、観客が増えるにつれて、どうすればもっと人を楽しませられるかを考えるようになったとも振り返っています。
演奏者自身の楽しさから、観客とともに作る楽しさへ。音楽性だけでなく、ライブへの向き合い方も変化していきました。
自主企画『OTENTO』と「EASY PUNK」へ
2018年から2019年にかけて大きな舞台を経験したTENDOUJIは、その後も自分たちの活動の形を模索していきました。
2023年には、自主企画『OTENTO WEST&EAST』をスタートさせています。
2024年には2回目の開催で大阪・東京の両公演がソールドアウトとなりました。
同年の『音楽と人』のインタビューでは、モリタが前年の開催時には思うようにチケットが売れなかったものの、2回目は早く完売し、手応えを感じたと振り返っています。
バンド自身が企画を立て、ほかのアーティストや観客とともにイベントを作る。結成初期に自主レーベルを設立した姿勢は、こうした活動にも通じています。
2024年には結成10周年を迎え、セルフタイトルのアルバム『TENDOUJI』を発表しました。
この作品では、モリタとアサノ、それぞれのソングライターとしての個性も、より明確に表れています。
『音楽と人』のインタビューでモリタは、自身の英語詞について、言葉数は少なくても日本語に訳すと説明が長くなるほど多くの意味を含ませていることを語っています。
初期のTENDOUJIは英語の響きやメロディーを強く意識していましたが、活動を重ねる中で、歌詞に込める内容や表現の方法も発展していきました。
そして、バンドが掲げるようになった言葉のひとつが「EASY PUNK」です。
2025年には、手頃な価格でライブを楽しめる全国ワンマンツアーを開催し、公式プロフィールでも「EASYPUNK」を活動のステートメントとして紹介しています。
難しく構えることなく、誰もが音楽を楽しめることを大切にする。その考え方は、2019年に語っていた、観客へ楽しみ方を強制しないライブへの姿勢ともつながっています。
もともとは、地元の友人と一緒に過ごし、自分たちが聴きたい音楽を鳴らしたいという気持ちから始まったバンドでした。
それが、自主制作の音源を配り、初めてのアルバムを完成させ、海外のステージへ立ち、自分たちでイベントを開催するまでになりました。
その間に、演奏技術や制作方法、音楽のテンポは変わっていきました。それでも、長年の仲間と音楽を作ること、良いメロディーを大切にすること、ライブを自由に楽しむことは、TENDOUJIの歩みを通じて繰り返し語られてきたものです。
20代後半になってから初めて本格的なバンドを組んだ4人。TENDOUJIの音楽は、学生時代から続く友情と、一度は実現できなかった「バンドをやりたい」という気持ちが、2014年にようやく形になったところから始まったのです。

