Ken Yokoyamaの始まり|横山健がソロ作から4人組バンドを作るまで

Ken Yokoyamaの始まりをテーマに、ギターを弾く横山健と4人組バンドのシルエットを配したビジュアル バンド

「Ken Yokoyama」という名前だけを見ると、横山健のソロ名義だと思う人もいるかもしれません。

実際、始まりは横山健が2004年に発表したソロアルバム『The Cost Of My Freedom』でした。

ところが、アルバムを出してツアーへ出るために仲間を集めたことから、次第に「Ken Yokoyama」は横山個人の名義ではなく、横山健をボーカル&ギターに据えた4ピースのロックバンドとして形を持つようになります。

その物語をさらに遡ると、中学生で洋楽に夢中になった横山が15歳でギターを手にし、THE BLUE HEARTSに衝撃を受け、下北沢で難波章浩や恒岡章と出会ってHi-STANDARDを結成した時代へ行き着きます。

今回は、横山健のギターの原点からHi-STANDARD、そしてソロ作品として始まったKen Yokoyamaが一つのバンドになるまでをたどります。

音楽ルーツ早見表

時期音楽史上の出来事
中学時代洋楽に目覚め、さまざまなジャンルを聴き始める
15歳高校入学を機にエレキギターを始める
高校〜卒業後THE BLUE HEARTSに衝撃を受け、バンド活動を開始
1991年難波章浩、恒岡章らとHi-STANDARDを結成
1998年ごろギタリストとしてソロ作品を作る構想を持つ
2002年HAWAIIAN6のアルバム制作に関わり、デモ制作を始める
2004年『The Cost Of My Freedom』を発表し、ツアーのためKen Bandを組む

中学で洋楽に目覚め、15歳でギターを始めた

横山健が音楽にのめり込んだのは、中学生のころでした。

深夜の『ベストヒットUSA』やMTV、在日米軍向けラジオ放送のFENなどから洋楽に触れ、Michael JacksonやMadonnaが登場した1980年代前半の音楽をジャンルにこだわらず聴いていたと振り返っています。

その中で、とくに目を奪われたのがボーカリストではなくギタリストでした。

Edward Van Halenに憧れ、独学でエレキギターを練習

最初に強く惹かれたギタリストとして、横山はEdward Van Halenの名前を挙げています。

高校へ入学するタイミングでエレキギターを手にし、タブ譜や音楽誌を頼りに独学で練習を始めました。

「ちゃんと始めたのは15歳の時です。」

出典:Gretsch Japan「横山健 Special Interview -後編-」

最初にコピーしたと本人が覚えている曲は、Rainbowの「Since You Been Gone」。パワーコードで弾き、レコードと同じような音が出たこと自体がうれしかったと話しています。

その後はハードロックやヘヴィメタルから、Metallica、Slayer、Anthraxといったスラッシュメタルへ興味を広げ、さらにSex Pistolsなどのパンクへたどり着きました。

このころはまだ、自宅でギターを弾くことそのものが楽しみの中心でした。

THE BLUE HEARTSが「バンドをやる」決定打になった

家でギターを弾いていた横山を、人前で演奏する側へ向かわせたのがTHE BLUE HEARTSでした。

高校生のころ、ラジオから流れてきた「人にやさしく」を聴き、一度では理解しきれないほどの衝撃を受けたと後年のインタビューで振り返っています。

THE BLUE HEARTSとの出会いによって、「家でギターを弾く」から「バンドを組んで人前へ出る」へ気持ちが変わりました。

横山自身もTHE BLUE HEARTSを「バンドを始める決定打」だったと語っており、単に好きだったバンドの一つではありません。

ヘヴィメタル、スラッシュメタル、パンクと聴き進めてきた10代の音楽体験を、自分でもステージで鳴らしたいと思うようになったのです。

高校卒業後、デモテープを持ってライブハウスへ

高校を出ると、大学浪人中にアルバイトをしながらバンドを組みました。

下北沢や新宿のライブハウスへ自分たちのデモテープを持ち込み、オーディションを受け、少しずつ定期的に出演するようになります。

下北沢のライブハウスでは、出演するだけでなく約1年半にわたってアルバイトもしていました。

18歳ごろまでほとんど知らなかったという下北沢は、こうして横山の音楽活動の中心地へ変わっていきます。

下北沢で難波章浩と出会い、Hi-STANDARDを結成

Ken Yokoyamaへ至る道を語るうえで、Hi-STANDARD以前の活動は外せません。

横山は最初からHi-STANDARDのギタリストだったわけではなく、それ以前にも4人組のバンドでステージへ立っていました。

Hi-STANDARD以前の4人組バンドでギターボーカルも経験

横山が後年、難波章浩との対談で明かしたところによると、Hi-STANDARD以前の4人組バンドではギタリストを担当していました。

ところがベーシストが抜け、ボーカリストがベースを兼任することになったものの、演奏しながら歌うことが難しかったため、一時的に横山がギターボーカルを担当します。

下北沢の屋根裏で1〜2本ほどライブを行い、500円ほど払って撮影してもらった自身の演奏映像を家で見返しました。

「俺はフロントマンになっちゃいけないんだ」

出典:PIZZA OF DEATH「Ken Yokoyama / NAMBA69 Split CD『Ken Yokoyama VS NAMBA69』リリース特設サイト」

そう感じた本人が、十数年後にはKen Bandのフロントマンとしてギターを弾きながら歌うことになります。

この4人組バンドが終わったあとに始まったのがHi-STANDARDでした。

ライブハウスで難波章浩と出会う

難波章浩との接点も、下北沢のライブハウスでした。

横山はライブハウスで働きながら自分のバンドでも出演し、難波が当時所属していたバンドと対バンを重ねるうちに交流を深めます。

難波のバンドが解散し、新しいバンドを始めようとしていた時期と、横山が自分のバンドに限界を感じていた時期が重なりました。

ライブハウスで築いた関係から横山と難波が一緒に演奏することになり、1991年夏のHi-STANDARD結成へ進みます。

Hi-STANDARD公式の年表では、1991年8月にボーカルを含む4人編成で結成したとされています。

1991年、恒岡章との初対面からHi-STANDARD始動へ

横山が恒岡章と初めて会ったのも、Hi-STANDARD結成のためにメンバーが集まったスタジオでした。

恒岡は事前に横山について「うるさい人」と聞かされ、それを「音楽に細かく、こだわりの強い人」という意味だと受け取っていたそうです。

ところが実際に会うと、声もギターの音も文字通り大きかったため、その日はほとんど口をきいてくれなかったと横山は振り返っています。

それでもTHE BLUE HEARTSなど好きな音楽について話すうちに打ち解け、バンドは動き始めました。

1991年10月には高円寺20000VでHi-STANDARDとしての初ライブを行い、翌1992年9月に当初のボーカリストが脱退して、難波章浩、横山健、恒岡章の3人編成になります。

その後のHi-STANDARDは国内だけでなく海外でもライブを重ね、1990年代後半には横山自身が1年の半分ほど海外で過ごした時期があったと語るほど活動範囲を広げました。

Hi-STANDARD休止後、「自分の歌」を作り始めた

Ken Yokoyamaの始まりを2004年だけで区切ると、その手前にあった数年間が抜け落ちてしまいます。

横山の中にはHi-STANDARDが活動を止めるより前から、ギタリストとして自分名義の作品を作る構想がありました。

1998年ごろからあったソロ作品の構想

2004年の『bounce』のインタビューで、横山は1998年ごろにTommy Guerreroのアルバムを聴き、ギタリストとしてソロ作品を作りたいと思っていたと明かしています。

Hi-STANDARDが活動を止めたあとには、さらに弾き語りへの興味が強くなりました。

バンドのギタリストではなく、自分自身の歌を持ち、ギターと歌だけでも演奏できる形を作りたいという気持ちです。

一方で、2000年前後の横山はBBQ CHICKENSでも活動しており、すぐにKen Yokoyamaへ一本化したわけではありません。

ソロ作品への構想と、別のバンドで鳴らしていた音楽が並行する中で、次のきっかけが訪れます。

HAWAIIAN6のプロデュースでバンドサウンドを再発見

2002年、横山はHAWAIIAN6の1stアルバムのプロデュースを担当しました。

メロディックパンクを鳴らす彼らの曲を把握し、アレンジまで深く関わるなかで、自分はこうしたバンドサウンドを作ることが得意なのではないかと改めて感じたと話しています。

そこから一人でデモテープを作り始め、およそ2年をかけて1stアルバムにつながる曲を形にしていきました。

弾き語り中心のソロを考えていた横山が、HAWAIIAN6との制作を経て再び「自分の得意なバンドサウンド」へ戻ったことが、Ken Yokoyama誕生の直接的な入口になりました。

2004年、ソロアルバムからKen Yokoyamaが生まれた

2004年2月18日、Ken Yokoyama名義の1stアルバム『The Cost Of My Freedom』がPIZZA OF DEATH RECORDSからリリースされました。

公式プロフィールでは、この作品を起点としてKen Yokoyamaのバンド活動が始まったと整理されています。

ただし、制作していた本人の感覚では、最初から新しい「バンド」を作ったわけではありませんでした。

『The Cost Of My Freedom』は当初「ソロ」のつもりだった

2024年にPIZZA OF DEATHのインタビューで1stアルバムを振り返った横山は、当時の位置づけを短い言葉で説明しています。

「僕はソロのつもりで出したんですね。」

出典:PIZZA OF DEATH「The Golden Age Of Punk Rock リリース特設サイト」

2004年当時の『bounce』でも「初のソロ作品」として紹介されており、レコーディングにはLOW IQ 01、堀江博久、Jah-Rah、古市コータローらが参加していました。

つまり『The Cost Of My Freedom』制作時点のKen Yokoyamaは、固定された4人組によるバンド作品というより、横山個人の作品として出発しています。

2004年の1stアルバム表題曲は、Ken Yokoyamaという名前が動き始めた時期の音をそのまま残す一曲です。

「ツアーをするならバンドを組もう」から4人組へ

アルバムが完成すると、横山はその曲をライブで演奏することを考えます。

本人の説明では、「アルバムを出したならツアーをしたい」「ツアーをするならバンドを組もう」という順番でした。

こうして組まれたのが最初のKen Bandです。

初期には横山健のほか、Colinがギター、Sergeがベース、Gunnがドラムを担当し、4人でライブ活動を進めていきました。

Ken Yokoyamaは「バンドを作ってから作品を出した」のではなく、「ソロ作品を出し、その曲でツアーへ出るためにバンドを組んだ」ことから始まっています。

そのメンバーで各地を回るうちに次の作品を作る話が生まれ、2005年には2ndアルバム『Nothin’ But Sausage』を制作します。

ここでは1stのようにさまざまなミュージシャンが集まる形ではなく、ツアーを続けてきたバンドでレコーディングするようになりました。

個人名を冠しながら、Ken Yokoyamaがバンド名になった

「Ken Yokoyama」は横山健の英語名をそのまま冠しています。

そのため外から見ればソロ名義のようですが、活動を重ねるにつれて実態は4人組のロックバンドへ変わっていきました。

本人も、1stから2ndのころまでは「ソロなのかバンドなのか」が曖昧だったと振り返っています。

公式プロフィールでも、横山の英語名を冠しているものの4ピースのロックバンドとしてライブを行い、以後はKen Yokoyamaそのものをバンド名として活動したと説明されています。

検索で「Ken Yokoyama メンバー」「Ken Yokoyama バンド」と調べる人がいる背景には、この少し特殊な成り立ちがあります。

Ken Bandとして形を固めていった2000年代

アルバムを出すために生まれたのではなく、アルバムをライブで鳴らすために生まれたKen Band。

2005年の2ndアルバム、2007年の3rdアルバム『Third Time’s A Charm』と作品を重ねるなかで、ライブバンドとしての活動規模も広がりました。

日本武道館公演と初期メンバーの変化

2008年1月13日には、日本武道館で「DEAD AT BUDOKAN」を開催しました。

公式プロフィールでは1万2000人を動員し、チケットは即日完売したと記録されています。

そして、この公演を最後に初期ギタリストのColinが脱退し、南英紀が加入しました。

同年秋にはベースのSergeが脱退し、Jun Grayが加入します。

横山は後年、この2人が入ったことで、それまで曖昧だったバンドの成り立ちや演奏のあり方がはっきりし始めたと振り返りました。

ソロとバンドの間にあった曖昧さは、2008年のメンバー交代を経て、「Ken Yokoyamaという4人のバンド」へ輪郭を持っていきました。

南英紀、Jun Grayらの加入を経て4人組として活動

2010年には4thアルバム『FOUR』を発表し、神戸国際展示場と幕張メッセ国際展示場で「DEAD AT BAYAREA」を開催しました。

この公演を最後にドラムのGunnが脱退し、松浦英治が加入します。

さらに2018年12月に松浦英治が脱退し、松本“EKKUN”英二が加入しました。

これによって、横山健、南英紀、Jun Gray、松本“EKKUN”英二という4人の体制が成立します。

15歳で一人ギターを弾き始めた横山が、Hi-STANDARDではギタリストとなり、Ken Yokoyamaでは自ら歌うフロントマンになった一方、その名義そのものは長い時間をかけて「横山健のソロ」から「4人で鳴らすバンド」へ変化していきました。

2026年、Ken Yokoyamaは活動休止の方針を発表

バンドとして20年以上活動を重ねたKen Yokoyamaは、2026年に大きな区切りを発表しました。

2026年9月25日、大阪・心斎橋LIVE HOUSE Pangeaで行われた公演のMCで横山が伝えた内容を受け、公式サイトとPIZZA OF DEATH RECORDSがKen Yokoyama(Ken Band)の活動休止方針を正式に発表しています。

2027年6月を区切りに休止すると正式発表

発表では、2027年6月開催予定とされた「SATANIC CARNIVAL 2027」を区切りとして、バンド活動を休止する方針が示されました。

理由として挙げられたのは、バンドとして活動を続けるための気力と体力の低下です。

これは新曲や通常のライブ告知とは異なり、Ken Yokoyamaのバンド史そのものに関わる正式な決定として発表された出来事です。

2004年、横山健が「ソロ」のつもりで作った1枚のアルバムから始まり、ツアーのために仲間が集まり、メンバー交代を経ながら一つの4人組バンドへ変わったKen Yokoyama。

そのバンドは2026年9月、翌2027年6月を一つの区切りとする活動休止方針を、自らの公式発表として残しました。

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