| 項目 | プロフィール |
|---|---|
| 活動名 | Tele(テレ) |
| 中心人物 | 谷口喜多朗(たにぐち きたろう) |
| 出身地 | 千葉県 |
| 誕生日 | 6月1日 |
| 活動形態 | ソロプロジェクト(高校時代は同名の3ピースバンド) |
| ソロ名義での初配信 | 2022年1月5日「バースデイ」 |
「バースデイ」「花瓶」「鯨の子」などの楽曲で知られるTele(テレ)は、谷口喜多朗によるソロプロジェクトです。
ただし、最初からひとりで活動していたわけではありません。
Teleは高校時代に結成された3ピースバンドの名前で、2020年前後にほかのメンバーが離れた後も、谷口喜多朗がその名前を引き継いで音楽を作り続けました。
音楽との出会いはさらに古く、14歳頃に約1万円のギターを買ったことが、本人にとって大切な出発点になっています。
当時は誰かに聴いてもらうことより、自分のためにギターを弾くことが重要でした。しかし、バンド活動を経てひとりになり、楽曲を発表し、ライブを重ねるうちに、音楽を届ける相手への考え方も変わっていきます。
14歳頃のギターとの出会いから、高校時代のバンド結成、ソロ活動を選んだ理由、初期楽曲の制作、そして日本武道館を経て変化した音楽観までをたどります。
| 音楽史の段階 | Teleの歩み |
|---|---|
| 音楽の原点 | ラジオから音楽が流れる家庭で育ち、14歳頃に約1万円のギターを購入 |
| バンド結成 | 高校2年生の頃、地元ライブハウスの大会へ出るため3ピースバンド「Tele」を結成 |
| 活動形態の変化 | 2020年前後にほかのメンバーが離れ、ひとりで楽曲制作を継続 |
| ソロ活動の始動 | 2021年頃から活動を動かし、2022年1月5日に「バースデイ」を配信 |
| 音楽活動の拡大 | 2022年に初アルバムと初ワンマン、2023年にSpotify「Early Noise 2023」選出 |
| 音楽観の変化 | 2024年の日本武道館公演を経て、2025年の2ndアルバムで創作思想の変化を作品に反映 |
Teleの音楽は14歳頃のギターから始まった
谷口喜多朗にとって、ギターは最初から音楽家になるための道具だったわけではありません。
音楽が身近にあった家庭で育ちながらも、楽器へ強く向かうようになった背景には、中学生の頃に感じていた息苦しさがありました。
ラジオが流れる家庭で育ち、幅広い音楽に触れた
谷口が育った家庭では、テレビを見ることよりもラジオを聴くことが多く、日常的に音楽が流れていたといいます。
母親はR&BやJ-POPなどを幅広く聴き、父親はジャズを好んでいました。
そのため、特定のジャンルだけを聴いて育ったのではなく、さまざまな音楽が自然に耳へ入る環境だったようです。
2025年7月のFenderNewsのインタビューでは、SAKEROCKやフィッシュマンズが好きだったことに加え、SEKAI NO OWARIやサカナクションも聴いていたと話しています。
母親の影響で小沢健二やノラ・ジョーンズにも親しんでいました。
ただし、好きなアーティストの音をそのまま再現しようとしていたわけではありません。
本人は、そうした音楽から具体的な演奏方法以上に、世界をどのように見るかという考え方の面で影響を受けてきた可能性を語っています。
幼い頃には、ピアノを弾いている友人に影響されて自分もピアノを始めましたが、長くは続きませんでした。
自分から音楽へ深く入り込むようになったのは、その後にギターを手にしてからです。
約1万円のギターを買い、ひとりで音楽を始めた
谷口が初めて自分のギターを買ったのは、14歳頃でした。
価格は約1万円。高価な楽器から始めたわけではありません。
当時、中学生になって勉強ができるようになった一方で、社会の中で決められた役割を果たさなければならないような感覚に息苦しさを覚えていたといいます。
周囲に音楽をやっている人もほとんどおらず、バンドを組むことも考えていませんでした。
ギターを弾き始めたのは、誰かに評価されるためというよりも、自分の気持ちを守れる場所を作るためでした。
FenderNewsのインタビューで、本人はギターを始めた理由を次のように説明しています。
自分の心が潰されない場所を作らなきゃいけないという危機感がすごくあってギターを始めました。
出典:FenderNews「Cover Artist | Tele -前編-」(2025年7月1日)
ギターが上達することだけを目的に、毎日練習していたわけでもありません。
アンプを購入すると、ギターのピックアップに音楽を再生したスマートフォンを乗せ、アンプからその音を鳴らすようなこともしていました。
音を出すという行為そのものが面白く、頭の中にある言葉にしにくいものを音へ変えられる感覚があったのでしょう。
本人も、地道な練習が得意だったわけではないものの、音楽やギターに触れる時間が救いになっていたと振り返っています。
初めて弾けるようになったTHE BLUE HEARTSの「情熱の薔薇」
ひとりでギターに触れていた谷口にも、ほかの人と演奏する機会がありました。
親の知人たちによるバンドに参加し、THE BLUE HEARTSの楽曲を演奏した経験です。
本人が初めて弾けるようになった曲として挙げているのは、THE BLUE HEARTSの「情熱の薔薇」でした。
この頃から、好きな曲を聴くだけでなく、実際に自分の手で音を鳴らす経験を積んでいきます。
また、2023年のBillboard JAPANのインタビューでは、高校生の頃、昼食代を節約してCDやライブチケットを買ったことも明かしています。
音楽を聴くこと、演奏すること、ライブへ足を運ぶことが、学生時代の生活の中で大きな位置を占めるようになっていました。
そして高校2年生の頃、地元のライブハウスで開催される大会が、新しい活動のきっかけになります。
高校時代に結成した3ピースバンド「Tele」
Teleという名前は、谷口がソロ活動を始める以前から使われていました。
もともとは、谷口を含む3人で結成したバンドの名前だったのです。
地元ライブハウスの大会をきっかけにバンドを結成
FenderNewsのインタビューによると、谷口が高校2年生の頃、地元のライブハウスで行われる大会へ出演するため、急きょバンドを組んだことがTeleの始まりでした。
地元は千葉県。谷口は、この頃の自分が身近な環境の中で音楽を続けていたと説明しています。
このバンドは3ピース編成で、谷口が17歳頃から約3年間活動していました。
2022年のBillboard JAPANのインタビューでも、最初の楽曲を発表する以前に、Teleという名前で3人組のバンドを続けていたことを本人が語っています。
つまり、2022年の「バースデイ」がTeleという名前での最初の音楽活動だったわけではありません。
高校時代のバンド活動から、同じ名称が引き継がれています。
一方、当時の正式メンバー全員の氏名、各担当、最初のライブ開催日などについては、本人が詳しく語った資料から一連の情報を確定できるわけではありません。
バンド時代に3人で活動したという事実と、後に谷口ひとりで制作するようになったという事実を区別する必要があります。
Teleという名前を付けた理由はテレキャスターの命名方法
バンド名のTeleには、複雑な物語や特別な略語が隠されていたわけではありません。
名前を考える際、谷口が気に入っていたのは、フェンダーのギター「Telecaster(テレキャスター)」の命名にまつわる話でした。
2023年4月の春日組のインタビューでは、テレビという言葉からテレキャスターという名前が付けられたと聞き、そのあっさりした命名方法が好きだったと説明しています。
2025年のFenderNewsでも、テレビ放送が広がった時代に生まれたTelecasterという名前の付け方に親しみを感じていたことを話しています。
意味を強く込めるよりも、短く、特別な意味を固定しすぎない名前にしたかったことが、Teleという名称につながりました。
本人は、名前を額縁に例え、重要なのはその中に入るものだという考え方も示しています。
名前そのものが作品の意味を決めるのではなく、そこでどんな音楽を作るかが重要だという感覚です。
ただし、バンド名を決めた時点で、谷口がフェンダーのテレキャスターを使っていたわけではありません。
当時はフェンダーのギターが高価だったため、まだ所有していなかったことも本人が明かしています。
ギターの名称から着想を得て付けたTeleという名前は、その後、バンドの編成が変わっても使われ続けることになります。
2020年前後にバンドからひとりのプロジェクトへ
約3年間続いたTeleのバンド活動は、2020年前後に大きく形を変えます。
ほかのメンバーが離れ、谷口がひとりで音楽制作を続けるようになったのです。
メンバーが離れ、ひとりで曲を作り続けた時期
2022年のBillboard JAPANのインタビューで、谷口は2020年頃から新型コロナウイルス感染症の流行と並行してバンドのメンバーがいなくなり、楽曲を作りためていたと話しています。
2025年のFenderNewsでは、当時の状況をさらに詳しく振り返っています。
谷口はもともと、自分の感情を整理するために音楽を作っていました。
バンドでも自分が求める表現へ向かって制作を続けていましたが、次第に過密な状態になり、メンバーが離れてしまったと説明しています。
その後、もう一度メンバーを探してバンドを組もうとしたものの、うまくいきませんでした。
一方で、曲を作ること自体はやめていません。
2020年前後は、バンドのメンバーがいなくなった時期であると同時に、谷口がひとりで楽曲を作りためていた時期でもありました。
まだ作品を継続的に発表できる状態ではありませんでしたが、制作した楽曲は手元に蓄積されていきました。
この時期、音楽との向き合い方にも変化が生まれます。
それまでは自分自身のために曲を作る意識が強かったものの、ひとりで活動する以上、自分の内面だけではなく、外の世界や音楽を聴く人のことも理解する必要があると考えるようになったのです。
ただし、その変化が最初から前向きなものだったわけではありません。
本人は2025年のインタビューで、当初は自分が理解されるために、まず世界を理解しなければならないという思いが強かったと振り返っています。
なぜTeleの名前を残してソロで活動することにしたのか
バンドのメンバーが離れた後、谷口は新しい活動名を付けることもできたはずです。
それでもTeleという名前を使い続けた理由について、本人は2023年4月の春日組のインタビューで説明しています。
ひとつは、自分で付けたTeleという名前を、何も残さないまま終わらせることへの寂しさでした。
もうひとつは、「シンガーソングライター」という肩書きだけで捉えられると、できることの幅が狭くなるように感じていたことです。
春日組のインタビューでは、Teleという名前を選んだ考え方について、次のようにも話しています。
どっちつかずの状態が割と好きなので
出典:春日組「Tele」(2023年4月1日)
個人の芸名として活動するわけでも、以前のような固定メンバーのバンドとして続けるわけでもない。
そのどちらにも限定されない形で音楽を作ることが、谷口には自然だったといいます。
Teleがソロプロジェクトになったのは、バンドのメンバーが離れた後も谷口喜多朗が制作を続け、Teleという名前と自由な表現方法を残そうとしたためです。
したがって、Teleの歴史を「2022年に結成されたソロプロジェクト」とだけ説明すると、それ以前のバンド活動が抜け落ちてしまいます。
高校時代に3人で使っていた名前を、谷口がひとりで引き継いだことが、現在知られるTeleの活動へつながっています。
「バースデイ」から始まった2022年の音楽活動
バンドのメンバーが離れた後も、谷口は楽曲制作を続けていました。
2021年頃からソロとしての活動を動かし、2022年には、それまで作りためてきた音楽を正式な作品として届け始めます。
最初の配信作品「バースデイ」と制作をためていた時期
Teleがソロプロジェクトとして最初に配信した楽曲は、2022年1月5日リリースの「バースデイ」です。
同曲は谷口喜多朗が作詞、作曲、編曲を担当しています。
配信に先立つ1月4日には、公式YouTubeチャンネルで「バースデイ」のミュージックビデオが公開されました。
高校時代から続けてきたTeleという名前で、初めてソロプロジェクトとして広く作品を届ける段階に入ったのです。
2022年のBillboard JAPANのインタビューで、谷口は初めて作品を発表できたことに安堵しながらも、もっと早く作品を届けたいという気持ちが強くなっていたと振り返っています。
すでに2020年頃から曲を作りためていたため、初配信は突然思い立って始めたものではありませんでした。
ひとりになってから続けてきた制作が、作品の発表という形へ進んだのです。
1stアルバム『NEW BORN GHOST』に込めた考え
2022年6月1日、Teleは1stアルバム『NEW BORN GHOST』を発表しました。
「バースデイ」「私小説」「夜行バス」「花瓶」「ghost」などを収録した、全9曲の作品です。
谷口がこのアルバムで考えていたのは、楽曲の内容だけではありませんでした。
2022年のBillboard JAPANのインタビューでは、アルバムジャケットの制作をデザイナーへ依頼した際、CDを初めて買う人に長く記憶してもらえるような作品にしたかったと説明しています。
初めて手にしたCDが、その人の人生とともに時間を重ねていくようなものになってほしいと考えていました。
実際に、Teleの作品をきっかけに初めてCDショップへ足を運んだというメッセージが届いたことも、本人の印象に残っていたようです。
14歳頃、自分のためにギターを弾いていた谷口は、アルバムを制作する段階で、音楽を初めて聴く人や初めてCDを買う人の体験まで考えるようになっていました。
アルバムのジャケットや、音楽をどのような形で受け取ってもらうかということも、作品制作の一部になっていたのです。
深夜の東京で生まれた「ghost」と初期の作詞思想
『NEW BORN GHOST』の最後に収録された「ghost」には、谷口がひとりで音楽を作っていた時期の経験が関係しています。
2022年のBillboard JAPANのインタビューによると、楽曲を作り始めたのは、新型コロナウイルス感染症の流行が始まった頃でした。
あるとき谷口は、深夜3時頃に自転車で東京の街を走り、新宿の歌舞伎町へ向かいました。
街には多くの人がいましたが、その中に自分を知っている人はいないという事実を強く意識したといいます。
その感覚が、「ghost」を書き始めるきっかけになりました。
ただし、完成した作品は、孤独を感じているという説明だけで終わるものではありません。
谷口は歌詞を書き進める中で、自分の曲を繰り返し聴いてくれる人がいることを考え、孤独であることを当然の前提としていた自分の認識を見直したと話しています。
それまで、自分の孤独を疑うことなく、その中で生きることを考えてきた谷口にとって、ほかの人とのつながりを認識する経験にもなっていました。
この頃の作詞方法にも、本人ならではの考え方があります。
谷口は、自分の言いたいことを歌詞で直接説明するのではなく、その感情を抱いた時間や場所、周囲にいた人などを書き込むことで、核心にある思いが奥へ隠れていくような表現を好んでいました。
ただ感情を曖昧にしたいわけではありません。
具体的な場面を重ねることで、言葉にしきれない本人の感情が作品から伝わると考えていたのです。
「ghost」で深夜の街を走った経験が歌詞の出発点になっていることも、当時の制作思想を理解するうえで重要なエピソードです。
ライブと楽曲制作を通じて変わり始めた音楽観
2022年に楽曲とアルバムを発表したTeleは、同じ年に初めてのワンマンライブも開催します。
作品をインターネットやCDで届けることに加え、会場で自分の音楽を聴く人と直接向き合う経験が増えていきました。
初ワンマン「東京宣言」で作品を人に届ける
2022年11月2日、Teleは東京キネマ倶楽部で初ワンマンライブ「東京宣言」を開催しました。
それまで楽曲を発表して反応を受け取っていた谷口にとって、自分の音楽を聴くために会場へ来た人々の姿を直接見る機会となりました。
2023年のBillboard JAPANのインタビューでは、このライブを経て、自分の音楽を聴いている人がどのような人なのかを具体的に感じられるようになったと話しています。
一方で、聴き手の姿が見えたからこそ、その人たちがどう思うかを必要以上に意識してしまう感覚も生まれたといいます。
自分が納得できる作品を作ることと、聴き手の反応を気にしすぎないこと。その間で、制作への向き合い方を考えるようになっていました。
また、高校時代に食費を節約してCDやチケットを購入していた本人にとって、ライブに足を運ぶ人がお金を払っているという事実も重要でした。
その対価に見合うパフォーマンスを届けなければならないという思いと、音楽を楽しむための費用が高くなっていることへの疑問を、同じインタビューで語っています。
さらに、2023年にはSpotifyが注目アーティストを選ぶ「Early Noise 2023」に選出されました。
初ワンマンやその後の活動を通じて、Teleの作品は、谷口がひとりで作っていた音楽から、会場で多くの人と共有する音楽へと広がっていきます。
銭湯帰りの出来事から生まれた「鯨の子」の歌詞
2023年2月15日に発表された「鯨の子」には、谷口の日常で起きた具体的な出来事が関係しています。
2023年4月の春日組のインタビューでは、高校時代から親しくしていた友人との経験を振り返っています。
その友人は就職活動が始まり、以前のように飲みに出かけることを控えていました。
ある日、友人が都内へ来た際、谷口は一緒に銭湯へ行きました。
普段ならそのまま飲みに出かけるところでしたが、その日は缶ビールを飲んで帰ったといいます。
その帰り道に生まれた感情や考えが、「鯨の子」の歌詞を書くきっかけのひとつになりました。
また、友人と酒を飲んだ後に上野公園を歩き、鯨のオブジェを見た経験も、楽曲名に関係する「鯨飲」という言葉を思い浮かべる背景になっていました。
ただし、谷口は「鯨の子」を特定の友人ひとりへ向けた歌だとは説明していません。
歌詞で呼びかける相手には、その友人だけでなく、自分自身や家族なども含まれる可能性があると話しています。
身近な友人との出来事を出発点としながら、受け取る人によって異なる相手を思い浮かべられる表現になっているのです。
さらに制作時には、出来事の良い面と悪い面のどちらかだけを書かず、その両面を意識して表現しようとしていました。
この考え方も「鯨の子」を制作するうえで、本人が重視していたことのひとつです。
弾き語りから声を重ねた「鯨の子」の制作過程
「鯨の子」は、歌詞が生まれた経緯だけでなく、音の組み立て方にも具体的な意図がありました。
本人によると、最初は弾き語りで曲を作っています。
しかし、その段階から、次第に声が重なり、最後には大人数で歌うようなイメージを持っていたといいます。
そのため、楽曲の冒頭は静かに始め、音と音の間にある空白も意識しながら制作しました。
一音ずつを丁寧に扱い、後半で声が広がっていく構成を、弾き語りの段階から考えていたのです。
また、谷口は人の声が重なる表現そのものに強い関心を持っていることも話しています。
「鯨の子」では、その関心が楽曲の構成と結びつきました。
ひとりで曲を作っていても、完成した音楽には複数の声が重なっていく。
2020年前後にひとりで制作を続けていたTeleは、ライブで音楽を共有する経験を重ねながら、ほかの人の声を含む表現も作品へ取り入れていました。
もっとも、「鯨の子」での静かな始まり方や声の重ね方を、Teleのすべての楽曲に共通する制作方法と捉える必要はありません。
友人との経験、歌詞の考え方、弾き語りから完成形を想像した制作過程が結びついた、この作品固有の背景です。
日本武道館を経て広がったTeleの表現
2024年6月1日、Teleは初めて日本武道館でワンマンライブを開催しました。
この公演は、活動規模が広がったことだけでなく、谷口が世界や他者とどのように向き合うかを考えるうえでも重要な経験になりました。
2024年の日本武道館で感じた音楽との向き合い方の変化
初の日本武道館公演は、全国ツアー「箱庭の灯」の初日として開催されました。
会場には大勢の観客が集まり、谷口はバンドメンバーとともに楽曲を演奏しました。
このときステージに立った演奏者たちが、かつての高校時代の3ピースバンドの正式メンバーへ戻ったという意味ではありません。
Teleは谷口喜多朗のソロプロジェクトとして、ライブではほかの演奏者と音楽を作り上げています。
武道館公演では、観客が大きな声で歌う場面もありました。
2024年のSPICEのライブレポートによると、谷口は「花瓶」を演奏する前、コロナ禍に誰かの声を聴きたくて、パソコン上で自分の声を何度も重ねていた経験を話しています。
以前は自分の声を重ねることで作っていた音の広がりを、武道館では会場の観客の歌声として受け取ることになりました。
その経験を、本人は翌2025年のFenderNewsのインタビューでも振り返っています。
それまで世界を理解しようとしていたのは、自分が理解されるためという思いが強かったといいます。
しかし武道館で、年齢も異なる多くの人が自分の曲を楽しそうに歌っている姿を見て、もっと前向きな気持ちで他者や世界を知りたいと思えるようになったと説明しています。
14歳頃には自分の心を守るために始めた音楽が、武道館では、ほかの人と世界を共有する経験になっていました。
本人は、かつて世界から逃げることが自分にとって誠実な選択だったのに対し、音楽活動を通じて人々と出会った後は、世界と向き合うことが自然になったと振り返っています。
2ndアルバム『残像の愛し方』へ至る創作思想
日本武道館公演を経たTeleは、2025年4月23日に2ndアルバム『残像の愛し方、或いはそれによって産み落ちた自身の歪さを、受け入れる為に僕たちが過ごす寄る辺の無い幾つかの日々について。』を発表しました。
1stアルバム『NEW BORN GHOST』から約3年後の作品です。
このアルバムでは、音楽を作る際の考え方にも変化が見られます。
2025年のBillboard JAPANのインタビューで、谷口は、より多くの人に受け取ってもらえるポップスを作る中で、作詞、作曲、編曲について自分なりのルールが形成されていったと説明しています。
初期のTeleは、自分の内側にある感情を出発点とし、その意味を直接説明しすぎない歌詞を書いていました。
その後、作品を届ける経験を重ね、表現したいことをどのような音楽へ変換すれば人に伝わるのかを考えるようになります。
2025年6月のReal Soundのインタビューでは、制作の手段そのものへのこだわりが薄れ、表現したい方向に合わせて合理的に制作を進めるようになったとも話しています。
たとえば、アルバムに収録された「残像の愛し方」は、先に決めたツアータイトルから曲を作りたいと思い、イントロの制作を始めたといいます。
本人によれば、その制作作業の大半はラップトップの中で完結しました。
14歳頃にギターを弾いていた時期と比べると、音楽を表現するために使う方法は大きく広がっています。
ただし、楽器からパソコンへ一方的に制作手段が置き換わったわけではありません。
ギター、弾き語り、打ち込み、ほかの演奏者との共同制作など、曲ごとに必要な方法を選んでいます。
また、横浜アリーナ公演では、ステージの周囲をカーテンで覆う演出も取り入れました。
谷口はReal Soundのインタビューで、客席からステージを見下ろす会場の形状も考慮し、観客との距離感を調節するためにカーテンを使ったと説明しています。
楽曲の音だけでなく、観客が何を見るか、舞台上の人物をどう感じるかということまで、作品表現の一部として考えていたのです。
「あくび」の録音方法に表れた制作の変化
2ndアルバムに収録された「あくび」は、Teleの制作方法が曲によって異なることを具体的に示す作品です。
2025年のBillboard JAPANのインタビューによると、この曲はライブでサポートを務めるキーボーディストの奥野大樹と、スタジオにマイクを立てて録音しました。
特徴的なのは、演奏のテンポを合わせるためのクリック音を使用していなかったことです。
谷口は、演奏者が実際にその場で音を出す、生身の感覚が強く残る録音だったと振り返っています。
一方、同じアルバムの「残像の愛し方」は、ラップトップ内での制作が大半を占めていました。
この2曲だけを見ても、Teleがすべての作品を同じ手順で作っているわけではないことが分かります。
打ち込みやパソコンでの作業を中心にする曲もあれば、演奏者同士の呼吸を生かして録音する曲もあります。
谷口がひとりで作詞・作曲を担うソロプロジェクトであっても、すべての楽器をひとりで演奏し、すべての録音をひとりで完成させるという意味ではありません。
2025年のReal Soundのインタビューで、ライブをする意味を尋ねられた谷口は、次のように答えています。
誰にでも自由な場所が必要だから。
出典:Real Sound「谷口喜多朗がTeleとして導く哲学に触れる アルバムとライブで表現し尽くした『残像の愛し方』の意味」(2025年6月12日)
14歳頃、周囲に音楽をやる人がいない中で、自分の居場所を作るようにギターを弾き始めた谷口喜多朗。
高校時代には3人でTeleを結成し、メンバーが離れた後も同じ名前で音楽を作り続け、2022年から作品を発表しました。
そして2025年の2ndアルバムでは、パソコンの中で音を組み立てる制作と、ほかの演奏者と向き合って音を録る制作の両方が、一枚の作品に収められています。

