OSHIKIKEIGOの音楽ルーツ|中3の決意とDTM、SNS投稿からデビューまで

OSHIKIKEIGOの音楽ルーツを、人物ビジュアルとDTM画面、レコード、街並みでたどる構成 ソロアーティスト

「ReTake」や「メイラード」でOSHIKIKEIGOを知り、「どんな歌手なんだろう」と気になった人も多いかもしれません。

OSHIKIKEIGOは、ソングライティングからトラックメイクまでを自ら手がけるセルフプロデュースのソロアーティストです。

2024年にSNSへの楽曲投稿を始め、2025年4月2日に「モナリザ」でユニバーサルミュージックからメジャーデビューしました。

ただし、幼い頃から歌手になることだけを夢見てきたわけではありません。

新潟でピアノとギターに触れながらも、子どもの頃は音楽を積極的に聴くタイプではなく、中学3年で進路を考えたときに自分で「音楽」を選び、高校ではバンドよりも一人でDAWに向かいました。

今回は、そんなOSHIKIKEIGOがどう音楽を始め、アレンジャー志望から自分で歌うようになり、SNS投稿を経てメジャーデビューへ進んだのかを時系列でたどります。

時期音楽ルーツの主な出来事
小学校低学年ピアノを始める
小学校高学年ギターを始める
中学3年ごろ音楽の道を選び、音楽理論を独学
高校時代DAWでの楽曲制作に没頭
音楽専門学校時代編曲・作曲・ミックスを学び、自分で歌う方向へ
2024年SNSへの楽曲投稿を開始
2025年4月2日「モナリザ」でメジャーデビュー

OSHIKIKEIGOはどんな歌手?新潟で始まった音楽の原点

OSHIKIKEIGOの音楽歴は、小学生の頃に始まっています。

けれど、その入口は「音楽が大好きで、自分から楽器を始めた」というものではありませんでした。

本人の話をたどると、むしろ音楽を仕事にすると決めたのは、楽器を始めてからかなり後の中学3年でした。

小学生でピアノとギターを始めても、音楽は好きではなかった

小学校低学年ではピアノを習い、高学年になるとギターにも触れました。

きっかけは親の勧めで、本人は当時を振り返って、楽器を「やらされている」ような感覚があり、音楽そのものもそれほど好きではなかったと話しています。

自分から音楽をたくさん聴くわけでもなく、ピアノを習っていた頃には毎年の発表会にも出たくなかったそうです。

それでもレッスン自体は続けていたため、「楽器に触れていたこと」と「音楽を自分の進路として選んだこと」には時間差があります。

育ったのは新潟の自然が身近な地域で、本人が「家から3歩で山」と表現するほどの環境でした。

小さい頃は森を歩いて遊び、漆でかぶれたこともあったという話からも、ライブハウスや音楽業界がすぐ近くにある生活とはかなり離れていたことが伝わります。

後に『BOARDING PASS』のセルフライナーノーツでも、出身地を新潟の森の端にある田舎と振り返り、高校卒業後に東京へ出たことを記しています。

幼少期に楽器経験はあったものの、音楽を職業として意識するまでには、もう一つ別のきっかけが必要でした。

中学3年でベン図を作り「音楽でいく」と決めた

大きく方向が変わったのは、中学3年で進路を考えたときです。

本人は、将来のゴールを先に決めて、そこから逆算して今やることを決めようとしました。

そこで「自分が一番やりたいこと」「自分が持っているもの」「人生の楽しさ」をベン図にして整理します。

「重なったのが音楽だったんですよ」

出典:音楽ナタリー「OSHIKIKEIGOインタビュー|初ミニアルバム『BOARDING PASS』で示す、ちょっとこじれた哲学」

その日のうちに親へ音楽の道へ進むと伝え、そこから音楽理論の勉強を始めました。

「好きだから何となく続けた」のではなく、人生の選択肢を整理した結果として音楽を選んだところに、OSHIKIKEIGOの始まり方の特徴があります。

高校入学祝いでパソコンを買ってもらう予定だったため、まだ制作環境がない時期には、YouTubeなどを使って音楽理論から先に学んでいました。

「パソコンが来たら曲を作る」ではなく、その前にコードや音楽の仕組みを覚えておこうとしたわけです。

オリジナル曲を作り始めたのも、中学3年から高校1年ごろでした。

また、後のBillboard JAPANのインタビューでは、米津玄師を音楽を始めるきっかけとなった人物として挙げています。

高校生の頃からは米津玄師のほか、星野源、Official髭男dism、King Gnuなどの音楽も好んで聴いていました。

ただし、本人が「好きだった」と語ったアーティストまで一律に強い影響源とするのではなく、米津玄師は音楽を始めるきっかけ、ほかの名前は当時好んでいた音楽として分けて捉えるのが自然です。

高校でDTMに没頭|バンドを諦めて一人で曲を作る

高校に入ると、待っていたパソコンを使えるようになり、DAWでの制作が本格的に始まりました。

ここで最初から「一人で全部作ろう」と決めていたわけではありません。

学校で仲間と音楽をやろうと動いたものの、そこでの小さなつまずきが、一人で制作へ向かう流れを作ります。

軽音部を作ろうとしたら、集まった全員がギターだった

進学した高校には軽音楽部がなかったため、入学直後に音楽をやりたい生徒を集めようとしました。

ところが、集まったメンバーはみんなギターを希望しました。

顧問を探すことも簡単ではなく、これではバンドにならないと判断して、学校でのバンド活動はいったん諦めます。

授業が終わると家へ帰り、一人でDAWを触る生活へ切り替わりました。

ライブ経験を積むよりも、パソコンの前で音を組み立てる時間が長くなっていきます。

ギターだけでなく、ピアノや音楽理論にもすでに触れていたため、特定の楽器だけを練習するというより、「曲全体をどう作るか」へ関心が向かいました。

この頃の制作は、後に本人が得意分野として語る編曲やトラックメイクへそのまま続いていきます。

メジャーデビュー後のインタビューでも、専門学校時代の練習を除けば、客を前にした本格的なステージは初ワンマンがほぼ最初だったと振り返っています。

高校時代から表舞台を目指してライブを重ねたタイプではなく、まず制作側から音楽へ深く入っていった人物でした。

トップ100を聴き、楽曲を図面にして分析した

一人で曲を作り始めると、今度は「良い曲がどうできているのか」をかなり細かく調べるようになります。

日本のトップチャートを上から聴き、ボーカル、ハモリ、キック、ベース、ギターのアルペジオなど、曲の中で何が鳴っているのかを紙へ図面のように書き出しました。

耳で何となく真似するだけではなく、各パートがいつ入り、どう重なり、どこで抜けるのかまで分解して構造を理解しようとしていました。

もともと数学も好きで、学校の先生から数学教師を勧められたこともあります。

音楽を感覚だけでなく、構造として理解しようとする姿勢は、この頃からかなりはっきりしていました。

好きな曲だけを研究するのではなく、日本のチャート上位曲をまとめて聴いていったのも特徴的です。

ヒットの理由を本人の感覚で決めつけるのではなく、まず実際の曲を分解し、どのような音がどこで使われているのかを自分で確かめていました。

こうした時間を重ねたあと、高校卒業を機に新潟から東京へ移り、今度は音楽を専門的に学ぶ環境へ進みます。

アレンジャー志望から「自分で歌う」ソロアーティストへ

高校卒業後は新潟を離れて東京へ移り、音楽専門学校へ進みました。

ただ、この段階でも目標の中心は「歌手になること」ではありません。

アレンジャーやミックスエンジニア、編曲家、作曲家といった制作側の仕事を志し、音の作り方を学んでいました。

音楽専門学校で編曲・作曲・ミックスを学ぶ

独学中心だった高校時代と違い、専門学校では分からないことを先生に聞きながらDAWを使える環境になりました。

在籍していたのも、ステージに立つボーカル系ではなく、曲を作ることを専門に学ぶサウンドクリエイター系のコースでした。

本人はアレンジャーやミックスエンジニアを志望し、そこから「編曲家になりたい」「作曲家になりたい」と考えて専門学校へ進んだと振り返っています。

つまり、自分の声を売り出すことよりも、曲の骨格や音色、ミックスまで含めて作品を作ることのほうが先にありました。

当初は一人で活動する前に、誰かとユニットを組む構想も持っていました。

しかし、制作を進める中で、一人のほうが自分の考えを形にしやすいと感じるようになります。

「人とやるのって大変だし、一人でやった方が早いな」

出典:Real Sound「OSHIKIKEIGO×OddRe: 対談 ソロとバンド、異なるアプローチから定義する“2026年のJ-POP”」

こうして、裏方として誰かの音楽を作るだけではなく、自分の名義で一人のアーティストとして制作する方向へ移っていきました。

それでも中心にあったのは編曲で、歌だけを主役に置くというより、DTMで作る音と生楽器の動きをどう組み合わせるかまで自分で考える制作スタイルを育てていきます。

後のレコーディングでも、ミックスや演奏を担当するプロに積極的に質問していたことを本人が語っており、制作工程そのものへの関心はデビュー後も変わっていません。

「オッドアイ」が自分で歌うために作った最初のオリジナル曲

自分で歌う方向へ進むうえで重要だった曲が「オッドアイ」です。

それ以前にも曲は作っていましたが、歌は別の人に頼むことが多く、本人は制作側に立っていました。

「オッドアイ」は、初めて自分が歌うことを前提に作ったオリジナル曲でした。

後にミニアルバム『BOARDING PASS』へ収録される曲の中でも、最初にSNSへ音源を投稿したのが「オッドアイ」だったと本人が振り返っています。

ここで「曲を作る人」と「歌う人」が別々ではなくなり、自分で作った音楽を自分の声まで含めて届ける形が生まれました。

2025年5月7日に2ndデジタルシングルとしてリリースされ、公式MVのクレジットではWritten by、Produced byともにOSHIKIKEIGO名義となっています。

演奏もエレキギターを除く楽器を自身で担当しており、セルフプロデュースという言葉が、作詞作曲だけではなく実際の音作りまで広がっていることが分かります。

最初はアレンジャーやミックスエンジニアを目指していた人物が、自分の声まで制作の中へ取り込んだことで、ソロアーティストとして外へ出す形が整っていきました。

SNS投稿が転機|多数のオファーからメジャーデビューへ

自分で作り、自分で歌う曲ができたあと、その音楽を広く外へ出す入口になったのがSNSでした。

公式プロフィールでは、2024年にSNS投稿を開始し、投稿直後から反響が生まれて業界関係者からオファーが相次いだとされています。

高校時代まで地元で一人DAWに向かい、専門学校でも制作側を志していた音楽が、ここでレコード会社や事務所へ届くことになります。

2024年の楽曲投稿から業界のオファーが相次ぐ

Billboard JAPANは、SNS投稿を始めた時点で契約のオファーを持ちかけたメジャーレコード会社や事務所が15社を超えたと伝えています。

投稿を始めた時期とメジャーデビューは同じではなく、SNSへの投稿は2024年、ユニバーサルミュージックからの正式なメジャーデビューは翌2025年です。

また、ここを「SNSで突然有名になった」とだけ捉えると、その前の時間が抜け落ちます。

中学3年で音楽を進路に選び、理論を学び、高校ではヒット曲を分解してDAWで制作し、専門学校では編曲やミックスを深めたうえで投稿へ進んでいます。

SNSは音楽を始めた場所ではなく、長く一人で作ってきた音楽が外へ届いた転機でした。

投稿後の反響そのものをヒットの理由として推測する必要はなく、確認できるのは、そこから複数の契約オファーにつながり、翌年のメジャーデビューへ進んだという事実です。

「モナリザ」でメジャーデビュー、「メイラード」へ広がった活動

2025年4月2日、「モナリザ」でユニバーサルミュージックからメジャーデビューしました。

「モナリザ」はOSHIKIKEIGO名義での初リリースでもあり、本人は、自分がこれからやりたい要素を分かりやすく含んでいるため最初に出したと説明しています。

意識していたのは、DTM世代の感覚と、生楽器が本来持つ動きやニュアンスを一つの曲の中で組み合わせることでした。

高校で一人DAWに向かい、音の構造を図面にして分析し、専門学校で編曲を学んだ人物が、デビュー曲でも「オケをどう作るか」を自分の作品の軸に置いています。

続く2025年7月2日には「メイラード」をリリースし、TVアニメ『フェルマーの料理』のオープニング主題歌を担当しました。

10月15日には初のミニアルバム『BOARDING PASS』を発表し、それまでにリリースした「モナリザ」「オッドアイ」「ダサめのステップ」「メイラード」「ユダ」などを一つの作品にまとめています。

そして11月には、大阪と東京で初のワンマンライブ「OSHIKIKEIGO First Free One-man Live “BOARDING PASS”」を開催しました。

専門学校時代にもライブ形式の練習経験はありましたが、本人によればそこには観客がおらず、サウンドクリエイターコースで学んでいたため、表に立つこと自体を想定していませんでした。

小学校低学年の頃にはピアノの発表会へ出たがらなかった人物にとって、この初ワンマンが客を前にした本格的なステージになりました。

東京公演のアンコールでは、自分で歌うために初めて作った「オッドアイ」をピアノの弾き語りで披露しています。

子どもの頃に始めたピアノを、自分で作り、自分で歌うようになった「オッドアイ」とともに客前で弾いたことまでが、OSHIKIKEIGOの初期の音楽史に残る一つの具体的な到達点です。

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