BRAHMANという名前から思い浮かぶのは、TOSHI-LOWの声、KOHKIのギター、MAKOTOのベース、RONZIのドラムがぶつかり合う4人の姿かもしれません。
1995年に東京で始まったBRAHMANは、最初からこの4人だったわけではありません。初代ギタリストと初代ベーシストがいた時期があり、ギター脱退後には3人で活動した時期もありました。
その途中でKOHKIが加わり、1998年にTOSHI-LOW、KOHKI、MAKOTO、RONZIという4人体制が成立します。
そこへ至るまでには、別々のバンドで活動していたメンバー同士の出会いと、好きな音楽を打ち明けた小さな会話がありました。
今回は、BRAHMANの結成前から最初期のライブ、メンバーチェンジ、KOHKI加入、AIR JAM ’98、そして2011年以降の表現の変化までを、音楽の流れに沿ってたどります。
| 項目 | 固定事実 |
|---|---|
| 結成 | 1995年、東京 |
| 公式記録に残る最初のライブ | 1995年8月9日、下北沢SHELTER |
| 初期音源 | 1995年「DEMO TAPE」 |
| 最初の作品 | 1996年11月『grope our way』 |
| 4人体制の成立 | 1998年、KOHKIが正式加入 |
| 初期の大きな転機 | 1998年 AIR JAM ’98/『A MAN OF THE WORLD』 |
BRAHMANはTOSHI-LOWとRONZIの出会いから始まった
BRAHMANの公式プロフィールには「1995年東京にて結成」とありますが、バンドの始まりを知るには、その少し前まで戻る必要があります。
TOSHI-LOWは小学生のころ、音楽雑誌に載っていたバンドの写真をきっかけにバンドへ興味を持ち、高校時代には自分でもバンドを始めました。
大学では一度軽音楽部へ入ったもののすぐに離れ、その後はライブハウスへ通うなかで交友関係を広げていきます。その時期、別のバンドでドラムを叩いていたRONZIと出会いました。
別々のバンドで活動していた2人が「なごり雪」で意気投合
RONZIによると、2人が最初にじっくり話したのは、互いに別のバンドで活動していたころの打ち上げでした。
そこで話題になったのが、イルカの「なごり雪」です。当時のハードコア周辺には、自分たちのジャンル以外の音楽を好んでいることを口にしにくい空気が残っており、2人は人目を気にしながら歌謡曲の話をしたといいます。
激しい音楽を演奏している一方で、物悲しいメロディやジャンルの外側にある音楽にも惹かれていた。そんな感覚が重なったことが、後に同じバンドで音を鳴らす入口になりました。
前身バンドの解散後、TOSHI-LOWがRONZIを誘う
転機は、TOSHI-LOWが当時所属していたバンドの解散でした。
新しいバンドを始めたかったTOSHI-LOWはRONZIへ声をかけます。ただ、RONZIにはまだ自分のバンドがあり、すぐに抜けるつもりはありませんでした。
ところが、練習への向き合い方などをめぐってメンバー間の温度差を感じるようになり、やがてそのバンドを離れます。
そういう温度差が俺は嫌になって、辞めて、TOSHI-LOWと始めたんだよね。
出典:SPICE「『バンドは成長もするけど、衰えてもいく。衰えるなら一緒に衰えていくのがいい』ーーBRAHMAN結成30周年、RONZIが描くバンドの未来像」
TOSHI-LOWとRONZIの2人が、BRAHMANの母体になりました。
初代メンバーを経てMAKOTOが加わり、1995年にBRAHMANが動き出す
最初期には、ギターのDAISUKEとベースのNABEが在籍していました。
とりわけNABEは、後にTOSHI-LOW自身が「BRAHMANの名付け親」であり、バンドが始まるきっかけとして大きな存在だったと振り返っている人物です。
MAKOTOは、TOSHI-LOWとRONZIを母体とするバンドへ数か月後に加入しました。加入前からTOSHI-LOWの以前のバンドを見ており、ほかとは少し違うボーカルスタイルに惹かれていたと話しています。
つまり、BRAHMANは4人が一度に集まって完成したのではなく、いくつかの出会いとメンバーの変化を経ながら形を整えていったバンドでした。
公式LIVE RECORDに残る最初の公演は、1995年8月9日の下北沢SHELTERです。JIG HEAD、颱風一家と共演し、その2日後には下北沢251、翌12日には新宿ANTIKNOCKへ出演しています。
初代ギターDAISUKEと歩いたBRAHMAN最初期
結成した1995年、BRAHMANは東京のライブハウスを中心に本数を重ねながら、同時に自分たちの曲を形にしていきました。
この時期にはまだ、後に広く知られる4人編成はできていません。初期メンバーとともにライブを続け、デモテープを作り、少しずつバンドとしての輪郭を固めていった段階です。
1995年のライブ活動と4曲入り「DEMO TAPE」
公式ディスコグラフィーに残る最古の音源は、1995年の「DEMO TAPE」です。
収録されたのは「TONGFARR」「JELLY FISH MAN」「ARTMAN」「SWAY」の4曲。翌年以降の作品にもつながる曲名が、すでにこの段階で並んでいます。
ライブの記録も、下北沢SHELTER、新宿ANTIKNOCK、渋谷ON AIR WEST、水戸LIGHT HOUSEなどへ広がっており、結成した年から継続してステージへ立っていたことが分かります。
後にBRAHMANのPAを担当することになるスタッフも、初代ギタリストDAISUKEがいたころのライブを見ており、当時から周囲のバンドとは違う印象を受けたと振り返っています。
最初のオリジナル曲「TONGFARR」はデモの1曲目だった
初期史で外せないのが、「TONGFARR」です。
RONZIは20周年時のインタビューで、BRAHMANで最初にできた曲が「TONGFARR」だったと振り返っています。
1995年のデモテープでは1曲目に収録され、その後1998年のアルバム『A MAN OF THE WORLD』にも収録されました。
最初期に作られた曲が、その後もライブや節目の作品で演奏され続けていることを考えると、初期BRAHMANの音を知るうえで分かりやすい起点の一つです。
1996年『grope our way』からギター脱退、3人での活動へ
1996年11月、BRAHMANは最初の作品としてミニアルバム『grope our way』を発表します。
「ARTMAN」「BEYOND THE MOUNTAIN」「晴眼アルウチニ」など5曲を収録し、同月末には新宿LOFTでレコ発ライブも行われました。
その後、ギターが脱退します。公式プロフィールでは、ギター脱退後はしばらく3ピースでライブとレコーディングを続けたと説明されています。
1997年10月には『WAIT AND WAIT』を発表し、それに伴う初の全国ツアーへ進みました。
ギターが不在のまま活動を止めなかったこの時期の先に、新しいギタリストとの出会いが待っていました。
KOHKI加入でTOSHI-LOW・KOHKI・MAKOTO・RONZIの4人が揃った
KOHKIは、BRAHMANへ加わる前から何度かライブを見ていました。
ミクスチャーロックやメロコアが勢いを持っていた時代に、BRAHMANには少し異なる音とキャラクターがあると感じ、「面白い」「格好いい」と印象に残っていたといいます。
自身のバンド解散後、BRAHMANから声がかかったKOHKI
KOHKIが当時所属していたバンドの解散ライブには、RONZIとMAKOTOも足を運んでいました。
そこで演奏を見たことが後の接点になり、共通の友人を介してBRAHMAN側から誘いが届きます。
KOHKI自身はRONZIと直接の知り合いではなく、加入へ向かう時期を「転校生」のようだったと振り返っています。
すでに作品を発表し、ライブを続けているバンドへ途中から入る以上、曲を覚えるだけではなく、3人が作ってきた独特の間やフレーズへ入っていく必要がありました。
「1週間で覚えてきて」から始まった最初のスタジオ
1997年12月、KOHKIは渋谷ON AIR WESTで行われたBRAHMANのライブへ呼ばれました。
そこで音源を渡され、最初のスタジオへ向けて短期間で曲を覚えることになります。
そこでCD渡されて「1週間で覚えてきて」って。
出典:SPICE「『自分らで切り開いて、続けられる限り続けるだけ』ーーBRAHMAN結成30周年、KOHKIが語るこれまでとこれからのこと」
対象になったのはミニアルバム2枚分、約10曲。KOHKIはそれらを覚え、緊張しながら最初のスタジオへ入りました。
一緒に演奏してみると、外から聴いていたとき以上に、3人それぞれのフレーズに癖があることも感じたといいます。
1998年にKOHKIが正式加入
1998年、KOHKIが正式加入し、TOSHI-LOW、KOHKI、MAKOTO、RONZIの4人が揃いました。
ただし、KOHKIが加入した瞬間から過去の音がすべて置き換わったわけではありません。
加入からおよそ半年後に制作された『A MAN OF THE WORLD』には、それ以前から存在した曲もあり、前任ギタリスト時代に作られたフレーズが残る部分もあったとメンバーは振り返っています。
初期メンバーが作ったものを受け継ぎながら、新しく加わったKOHKIのギターが徐々にバンドの音へ溶け込んでいった時期でした。
結成30周年の節目には、4人全員がそろい、長く続けてきたBRAHMANについて語る公式インタビューも公開されています。
AIR JAM ’98と『A MAN OF THE WORLD』が初期BRAHMANの転機に
4人が揃った1998年、BRAHMANはライブと作品の両方で大きな節目を迎えます。
その年の夏にはAIR JAM ’98へ出演し、翌月には初のフルアルバム『A MAN OF THE WORLD』を発表しました。
AIR JAM ’98で3万人超の観客を前に2ndステージのトリへ
1998年8月22日、豊洲BAYSIDE SQUAREで開催されたAIR JAM ’98にBRAHMANは出演しました。
当日は3万人を超える観客を前に、2ndステージのトリを担当しています。
公式プロフィールでも、この出演はバンドとしてのポジションを決定づけるきっかけの一つとして位置づけられています。
結成から約3年。メンバーチェンジを経て4人が揃った年に、大規模なイベントで一つのステージを締めるところまで進んでいました。
『A MAN OF THE WORLD』がインディーズで広がった
AIR JAM ’98から間もない1998年9月1日、フルアルバム『A MAN OF THE WORLD』が発売されました。
「TONGFARR」「SEE OFF」「NO LIGHT THEORY」「ANSWER FOR…」などを収録した作品で、インディーズ流通ながら一部の外資系レコード店で総合チャート1位を獲得したと公式プロフィールに記録されています。
ここで重要なのは、BRAHMANの広がりを一つの出来事だけで説明しないことです。
1995年のデモ、1996年の『grope our way』、1997年の全国ツアー、KOHKI加入、AIR JAM ’98、そして『A MAN OF THE WORLD』と、複数の段階を重ねながら知られる範囲を広げていきました。
1999年「deep/arrival time」でトイズファクトリーから作品を発表
翌1999年7月にはFUJI ROCK FESTIVAL ’99へ出演し、9月29日にはトイズファクトリーから「deep/arrival time」を発表しました。
BRAHMANの経歴では「デビュー」という一語だけで初期をまとめるより、1995年のデモ制作、1996年の最初の作品、1998年のフルアルバム、1999年のトイズファクトリーからのリリースを分けて見る方が実態に近くなります。
最初から大きなレーベルで始まったのではなく、ライブハウスと自主的な活動を積み上げた先に、より広い流通へ接続していった流れでした。
BRAHMANという名前と音楽はどこから生まれたのか
BRAHMANの結成史を追うと、メンバーがどう集まったかだけでなく、なぜこの名前と音楽表現になったのかも気になってきます。
そこには、名付け親となった初期メンバー、RONZIが子どものころから好んだ音、そしてTOSHI-LOWが抱えてきた言葉や死への感覚が重なっています。
BRAHMANの名付け親は初代ベーシストNABE
「Brahman(ブラフマン)」はインド思想で「梵」と訳され、宇宙の根本原理や最高原理を表す言葉です。
この名前を付けたのは、初代ベーシストのNABEでした。
TOSHI-LOWは後年、NABEについて、BRAHMANの名付け親であり、バンドの最初のきっかけとして大きな存在だったと話しています。
一方で、バンド名の意味と後の音楽表現を、最初から完成したコンセプトだったように結びつけるのは正確ではありません。長い活動のなかで、名前と自分たちの表現が重なっていった面があります。
TOSHI-LOWは幼いころから死そのものに疑問を抱き、BRAHMANを始める直前にも身近な友人との別れを経験していました。
自分の思っている死生観を出してもいいような器だったから
出典:Real Sound「BRAHMAN TOSHI-LOWはなぜ死生観と向き合い続けるのか “終わり”を受け入れ力強く前進する結成30周年」
民族的、宗教儀式的な響きを持つ音楽とBRAHMANという名前は、TOSHI-LOWにとって自分の死生観を書いてもいいと思える枠になっていきました。
RONZIが幼いころから惹かれていた異国情緒
BRAHMANの音にある異国的な感触を考えるうえでは、RONZIの幼少期の記憶も興味深いものです。
子どものころに引っかかった曲として久保田早紀の「異邦人」や中森明菜の「ミ・アモーレ」を挙げ、テレビ番組『シルクロード』などで耳にした異国情緒のある音にも惹かれていたと振り返っています。
そして、TOSHI-LOWとの最初の会話では「なごり雪」に共感した。激しさだけではなく、哀感のある旋律や異文化を感じさせる響きが、メンバーそれぞれの内側にありました。
TOSHI-LOWも後年、民族音楽や中東的な響きから受け取ったものを、そのまま持ち込むのではなく、ギターやベースで自分たちなりの形へ置き換える感覚を語っています。
TOSHI-LOWの言葉には寺山修司との出会いも残っている
音だけでなく、BRAHMANを形作るもう一つの柱がTOSHI-LOWの言葉です。
本人は、バンドマンになりたいと思う以前に詩人になりたいと思っていたと明かしています。
その入口になったのが、街の書店で手に取った寺山修司の『ポケットに名言を』でした。そこから寺山の作品へ触れ、言葉の断片を自分の中へ取り込んでいきます。
寺山修司との出会いは、TOSHI-LOW自身が「言葉のルーツ」として語る体験です。後の歌詞に現れる生と死、別れ、希望と絶望を一つの方向だけで決めつけない感覚にも、その読書体験が残っています。
2011年の震災がBRAHMANの表現をもう一度変えた
1990年代に4人の形を整えたBRAHMANには、その後もう一度、表現の方法が大きく変わる時期がありました。
大きなきっかけになったのが、2011年3月11日の東日本大震災です。
震災後、TOSHI-LOWは被災地での復興支援へ動き、ステージ上ではそれまでほとんど行っていなかったMCをするようになります。
復興支援を通じて「作っていた自分像」と向き合う
TOSHI-LOWは後年、震災後にはあまりに多くの変化があったと振り返っています。
復興支援も、ライブで言葉を発することも、それまで自分が作っていた「こう見られたい」という像とは違う行動でした。
それを続けるなかで、アーティストとして作った自分と生活者としての自分の距離を見直すことになります。
変化の中心は「日本語の曲が増えた」という表面的なことではなく、もっと素の自分へ近づいたことだと本人は説明しています。
日本語、MC、言葉を前に出すBRAHMANへ
2011年以降、ライブでのMCと復興支援はBRAHMANの活動の一部になり、2013年のアルバム『超克』では日本語を前に出した楽曲も増えていきました。
これは、それ以前のBRAHMANを捨てて別のバンドになったという話ではありません。
結成当初からTOSHI-LOWの内側にあった死生観や言葉への関心が、震災を経て、歌詞だけでなくステージ上の言葉や行動にも現れるようになった変化でした。
BRAHMANの結成史は、1995年という年だけでは説明しきれません。初期メンバーを経て4人が揃い、ライブと作品を重ね、その後も出来事に応じて表現の方法を変えてきました。
その出発点には、別々のバンドにいたTOSHI-LOWとRONZIが音楽の話を交わし、新しいバンドを始めたことがありました。

