| メンバー | 担当 |
|---|---|
| 園田努(そのだ つとむ) | ボーカル・ギター |
| 高野諒大(たかの りょうた) | ベース |
| 池田抄英(いけだ しょうえい) | キーボード・サックス |
maya ongaku(マヤオンガク)は、神奈川県の湘南・江ノ島周辺から生まれた3人組バンドです。
2021年結成と紹介されていますが、その音楽の始まりをたどると、もっと前から続いていた地元の友人同士の交流に行き着きます。
3人は最初からバンドを組むために集まったわけではありません。
学校やサッカーを通じて親しくなった仲間が、江ノ島の一軒家で即興演奏を重ねたことが、maya ongakuの原点です。
初期には30分ほど続く曲をライブで演奏し、やがてその曲名がバンド名になりました。
さらに、何気なくSoundCloudへ投稿していた演奏が海外レーベルの関心を引き、2023年のアルバム『Approach to Anima』へつながっていきます。
ビートルズとの出会い、江ノ島でのセッション、ドラマーの交代、そして限られた機材での録音。
それぞれの出来事をたどると、maya ongakuの音楽がどのように形作られたのかが見えてきます。
| 音楽史の段階 | maya ongakuの歩み |
|---|---|
| 音楽の原点 | 学生時代にビートルズなどの1960年代の音楽へ関心を深める |
| 初期活動 | 江ノ島の一軒家「戸建て」で、仲間と即興演奏を重ねる |
| バンドの成立 | 即興曲「maya」が活動の中心となり、2021年を公式結成年とする |
| 初アルバム | 2023年5月、GURUGURU BRAINとBayon Productionから『Approach to Anima』を発表 |
| 海外活動 | 2023年の欧州ツアー、2025年の米国ツアーやKEXP出演へ進む |
| 制作の変化 | 2024年のEP『Electronic Phantoms』を経て、2026年に2ndアルバム『Nothing Space Music』を発表 |
maya ongakuの3人は音楽を始める前から友人だった
園田努、高野諒大、池田抄英の3人は、バンド活動を始めるよりも前から親しい間柄でした。
園田と高野は鎌倉の中学校で同級生となり、池田とは高校時代のつながりがあります。
2023年のEYESCREAMのインタビューでは、全員がサッカー部だったことも明かしています。
最初の頃は音楽について語り合う関係ではなく、学校や地元で遊ぶ友人同士だったそうです。
その関係が変わり始めたのは、園田と高野が大学受験の浪人生活を送っていた頃でした。
園田努をビートルズへ導いた中学時代の出来事
園田が1960年代の音楽に強く関心を持つようになったきっかけは、中学3年生頃に観たビートルズのテレビ特集でした。
NHK『SONGS』で放送された特集を家族が録画しており、園田は学校から帰ると繰り返し観ていたといいます。
そこでビートルズに興味を持ち、iTunesで音源を購入しようとしました。
ところが、ベストアルバムだと思って選んだ作品は、実際には1968年発表の通称『ホワイト・アルバム』でした。
曲数が多く、正式タイトルも『The Beatles』だったため、ベスト盤だと思い込んでしまったそうです。
しかし、この偶然の出会いが、園田の音楽観に大きな影響を与えました。
園田が特に心を動かされたのは、完成された商業音楽とは違う、作り手の自由な発想や手作りの感覚でした。
当時は大友克洋の漫画や『ガロ』系の作品にも関心があり、最初は理解しきれなくても、時間をかけて面白さが分かってくる表現に惹かれていたといいます。
『ホワイト・アルバム』から感じた魅力も、それに近いものでした。
2026年のギター・マガジンでは、ビートルズの「Blackbird」を弾きたくて、中学3年生頃にお年玉を使ってエピフォンのアコースティックギターを買ったことも振り返っています。
当時は難しくて弾けなかったものの、大学進学後にはエレキギターも購入し、本格的な演奏へ進んでいきました。
園田がビートルズから受け取ったのは、好きな楽曲だけでなく、自分たちでも音楽を作ってみたいと思える感覚だったのでしょう。
高野諒大と池田抄英が楽器を始めたきっかけ
高野が本格的に音楽へ向き合い始めたのは、園田と同じく浪人生活を送っていた時期でした。
それまではMr.Childrenなどのポップスを聴いており、1960年代の海外音楽にはそれほど詳しくなかったそうです。
受験勉強を続けるなかで、園田からCDを借りたり、一緒にレンタル店へ出かけたりするようになりました。
ビートルズのアルバムを最初から順番に聴き、ローリング・ストーンズやクリームなどにも関心を広げていきます。
2026年のベース・マガジンで高野は、大学へ進学して就職するという将来を考えるなかで、それまで聴いてこなかった音楽が心に響くようになったと説明しています。
最初からベースを弾いていたわけではありません。
まず園田から使っていないアコースティックギターを借り、受験期間中に半年から1年ほど練習していました。
受験が終わると、友人からお金を借りて初めてのベースを購入。
選んだのは、ビートルズのポール・マッカートニーを連想させるヘフナーのベースでした。
大学入学前に園田と自動車免許の合宿へ出かけた際も、高野は購入したばかりのベースを持参し、園田はギターを持っていったそうです。
高野にとって初めてのライブでは、ビートルズの「Come Together」、Yogee New Wavesの「CLIMAX NIGHT」、ハービー・ハンコックの「Chameleon」などを演奏しました。
こうしたコピー演奏から、仲間と音を合わせる経験を積んでいったのです。
一方、池田は小学4年生頃からギターに触れていました。
大学進学後にはフリーマーケットでサックスを見つけ、それをきっかけに吹くようになったといいます。
園田と高野が熱中していた1960年代の音楽を聴くうちに、池田もその魅力に引き込まれていきました。
音楽を始めた年齢も楽器も異なる3人でしたが、同じ作品を聴き、演奏について話す時間が増えたことで、音楽を共有する仲間になっていきました。
江ノ島の一軒家「戸建て」で始まったジャムセッション
大学生になった3人の音楽活動を大きく変えたのが、江ノ島にあった一軒家です。
仲間内では、その家を単に「戸建て」と呼んでいました。
そこは練習場所というだけではなく、音楽や映画、これからの生き方について語り合う場所でもありました。
音楽好きの仲間が集まり、演奏を重ねた場所
「戸建て」は、もともと友人7〜8人ほどで共同して借りた家でした。
音楽を演奏する人だけでなく、映画やさまざまな文化に興味を持つ人も出入りしていたそうです。
3人はその2階を改造し、PAスピーカーを持ち込んでセッションを始めました。
演奏していたのは、完成されたオリジナル曲ではありません。
ブルースのコード進行を繰り返したり、ピンク・フロイドの「Echoes」の一部分を延々と演奏したりする、即興中心の音楽でした。
2026年のギター・マガジンで園田は、ピンク・フロイドの好きな部分を1時間ほど引き延ばして演奏することもあったと振り返っています。
当時のセッションは、決まった曲を正確に再現する練習とは違いました。
同じコードを弾き続けながら、どの音を入れるか、いつ演奏を止めるか、ほかの人が鳴らした音にどう応えるかを試していたのです。
音楽理論を十分に理解していたわけでもなく、演奏するなかで少しずつ身につけていきました。
初期には参加人数が増え、7人ほどで演奏することもありました。
そのため、現在知られる3人編成が最初から完成していたわけではありません。
2026年のNiEWのインタビューでは、音を出し始めると周囲の家が雨戸を閉めていた、という当時の様子も語られています。
近隣にとっては静かな環境ではなかったはずですが、若い仲間たちはその場所に集まり、演奏や議論に熱中していました。
就職するのか、何を仕事にするのかという話題も多かったそうです。
園田は、そうした話し合いを経て、好きな音楽を続けて生きていきたいと考えるようになったことを明かしています。
音楽を演奏することと、自分たちで生活や活動のあり方を決めることが、同じ場所で育っていたのです。
地元の先輩たちとの交流と初期の音楽作り
江ノ島周辺での音楽体験には、地元の古着店「ACE GENERAL STORE」も深く関わっています。
店には古着だけでなくレコードもあり、音楽好きの人たちが集まっていました。
Suchmosのメンバーも出入りしており、園田たちはそこで年上のミュージシャンと交流するようになります。
2023年のEYESCREAMでは、Suchmosのメンバーから楽器の基本的な扱い方や音階について教わった経験が語られています。
ただし、園田によれば、誰かの音楽をそのまま受け継ごうとしていたわけではありません。
先輩たちと自由に交流しながら、自分たちの音楽をどう作るかを考えていたそうです。
高野にとっては、レコードとの出会いも重要でした。
店の人がクリームのアルバム『Disraeli Gears』のTシャツを着ていたことから、そのバンドを教わったという具体的な思い出も残っています。
また、先輩たちとの演奏では、細かな指使いを教わるよりも、提示されたコードに合わせて自由に弾くことが多かったといいます。
高野は、そうした経験のなかでブルースの基本的なコードを学び、ベースのフレーズを自分で考えるようになりました。
3人は最初から特定の音楽ジャンルを完成形として目指していたわけではなく、ビートルズ、ピンク・フロイド、ブルースなどを聴きながら演奏を重ねていました。
園田が受け取った音楽、高野が新しく覚えたベース、池田が以前から触れていた楽器。
それらが江ノ島の仲間とのセッションで交わり、次第にひとつのバンドとしての形を取り始めます。
即興曲「maya」がバンドの始まりと名前になった
maya ongakuという名前には、少し変わった誕生の経緯があります。
最初からバンド名として考え出された言葉ではなく、園田が作った即興曲のタイトルが先にありました。
園田が作った約30分の曲を仲間と演奏
園田は一時期「戸建て」から離れ、芸術運動のフルクサスやネオダダに関心を向けていました。
そのなかで、即興表現や無意識と結びついた創作について考えるようになります。
園田が注目したのは、人が直接見たり聞いたりしていないものまで、想像によって理解しているということでした。
例えば、目の前から消えた猫が背後を通って反対側へ現れたとき、人は見えていなかった移動の過程も頭の中で思い描きます。
園田は、そうした知覚の外にあるものを想像する働きに、創作の根源を感じていました。
その考えから「maya」という言葉を思いつき、ひとつのコードを中心に約30分続く即興曲を作ります。
園田はアコースティックギターで作った音源を仲間に送り、バンドで演奏してみないかと誘いました。
Qeticでの幾何学模様のGoとの対談では、園田自身が、この誘いをバンドの始まりのひとつとして説明しています。
その後、「maya」はライブでも演奏されるようになりました。
ただし、長さが約30分もあったため、イベントによっては1曲演奏しただけで出演時間が終わってしまったそうです。
池田も、初期のライブでは毎回違う曲を演奏するというより、同じ1曲を繰り返し追求していたと振り返っています。
完成した曲を増やしていくのではなく、演奏するたびに変化する「maya」を深めていく活動だったのです。
当初はイベントごとに違うバンド名で出演することもありました。
ところが、演奏後の曲紹介で「maya」というタイトルを伝えているうちに、観客からバンドそのものを「maya」と呼ばれるようになりました。
つまり「maya」は、園田の即興曲の名前から、観客にも認識されるバンドの名前へ変わっていったのです。
名前を決めることで音楽のイメージが固定されてしまうことに抵抗を感じていた園田にとって、自然に定着した曲名をそのまま使う方法は、無理のない選択だったようです。
「maya ongaku」の名前の意味と由来
「maya」という言葉は、マヤ文明から取ったものではありません。
園田は2023年のEYESCREAMで、サンスクリット語の「maya」から音を取ったと説明しています。
ただし、サンスクリット語の意味をそのままバンド名にしたわけでもありません。
園田が独自に考えたのは、目で見えている範囲の外にあり、想像によって作り出される世界を表す言葉としての「maya」でした。
所属するBayon Productionの公式プロフィールでも、その名前を、視野の外にある想像上の景色を意味する新造語と説明しています。
では、なぜ「maya」だけでなく「ongaku」が付いたのでしょうか。
この理由について、園田は次のように答えています。
これはネットでの検索対策です。
園田努/出典:EYESCREAM「Interview: maya ongaku ファーストアルバム『Approach To Anima』を通して見えてくる彼らの『maya』」
Spotifyなどで「maya」と検索すると、同じ名前を使う海外のアーティストが数多く見つかるため、区別しやすい名前にする必要があったのです。
さらに、もうひとつの理由として、園田は小杉武久が参加した実験音楽集団「グループ音楽」への敬意を挙げています。
その名前の響きを気に入っていたことも、「ongaku」を加える理由になりました。
実用的な検索対策と、実験音楽への関心。
両方が重なって、現在知られる「maya ongaku」という名前が成立したのです。
ドラムレスの3人組から初アルバム制作へ
即興演奏を中心に活動していたmaya ongakuが、アルバムを作るバンドへ変わっていく過程には、大きく分けて2つの転機がありました。
ひとつは、ドラマーの交代を経て3人で演奏する方法を考え始めたこと。
もうひとつは、海外レーベルGURUGURU BRAINから音源制作の話が届いたことです。
ドラマーの交代と3人編成への変化
maya ongakuは、最初からドラムのない3人組だったわけではありません。
初期のセッションには複数の仲間が参加しており、その後、園田、高野、池田にドラマーを加えた4人編成でも活動していました。
2023年のQeticの対談で園田は、活動していたドラマーが病気になって抜けたことを、3人編成へ進む重要な出来事として説明しています。
ただし、ドラマーに関する経緯はそれだけではありません。
2026年のNiEWのインタビューで、池田はドラマーが過去に3回変わっていたことを明かしています。
園田によれば、3人は日頃から音楽だけでなく考え方も共有していた一方、ドラマーとの間では演奏や感覚がうまくかみ合わないこともありました。
2026年のベース・マガジンでは、高野がさらに詳しい経緯を説明しています。
ドラマーの病気をきっかけに、サポートドラマーを入れたり、ギタリストをもう1人加えて5人でライブをしたりする時期もあったそうです。
しかし、そうした編成を続けるなかで、3人の間では無理にメンバーを増やさなくてもよいのではないかという考えが生まれました。
ドラマーを新たに固定するのではなく、園田、高野、池田の3人で音楽を成立させる方法を選んだのです。
その手段として導入されたのが、リズムマシンでした。
高野はベースに加えて、リズムを扱う機材にも関わるようになります。
当初はリズムマシンに合わせて演奏することに難しさを感じていたそうですが、次第に機械的なリズムとの組み合わせを身につけていきました。
ライブではルーパー、シンセサイザー、リズムマシンを同期させる仕組みも使用するようになりました。
2026年のNiEWでは、園田が、あらかじめ演奏の展開を細かく決めすぎると、その日の会場やメンバーの状態に合わせて変化をつけにくくなると説明しています。
ドラムレスになったからといって、すべてを決められた機械の演奏に任せるのではありません。
3人による即興性を残しながら、必要なリズムを補う方法が作られていきました。
2025年4月にアメリカ・シアトルのKEXPで収録されたスタジオライブでは、そんな3人の演奏を確認できます。
ギターと歌、ベース、サックスやシンセサイザーが、長い演奏のなかで少しずつ重なり合っていきます。
メンバー数を増やすのではなく、3人で使う楽器や機材の役割を広げたことが、maya ongakuの演奏の特徴になりました。
SoundCloudの音源が海外レーベルに届くまで
初期のmaya ongakuは、アルバムを制作することよりも、仲間とのジャムセッションを続けることが活動の中心でした。
その様子を録音した音源を、SoundCloudに公開していました。
録音方法は本格的なものではなく、iPhoneのマイクで録った演奏をそのまま投稿することもあったそうです。
こうした音源に関心を持ったのが、幾何学模様のメンバーであり、GURUGURU BRAINを運営するGoでした。
2023年のQeticの対談でGoは、maya ongakuを最初に見つけたのは、おそらくInstagramだったと振り返っています。
その後、SoundCloudで公開されていた4〜5曲ほどのジャム音源を聴きました。
完成した楽曲というより、演奏を試している最中のような録音でしたが、Goはそこに興味を持ったといいます。
そこでバンドへ連絡し、アルバムを作る予定があるのかを尋ねました。
maya ongakuの3人も、幾何学模様やGURUGURU BRAINの存在を以前から知っていました。
会話のなかで、アルバムを作ればレーベルから発表できるかもしれないという話になっていきます。
園田はこの連絡があった時期を、2023年の対談で、コロナ禍が始まった2020年前後だったと振り返っています。
一方、公式プロフィールでは2021年を結成年としています。
これは、仲間同士による初期演奏、レーベルとの接触、正式なバンド活動の成立を、それぞれ別の段階として理解すると整理しやすいでしょう。
Goから声がかかったとき、3人にもアルバムを自分たちで作ってみたいという考えはありました。
ただ、これまではジャムばかりで、ひとつの曲を完成させて録音する経験が十分になかったそうです。
池田は、Goからの提案がなければ、ずっと即興曲「maya」を追求し続けていたかもしれないと振り返っています。
海外レーベルとの出会いは、長い即興演奏を続けていた3人が、完成した作品を作る方向へ進む決定的な後押しになりました。
2022年12月3日には、幾何学模様の活動休止前最後の公演で、maya ongakuがオープニングアクトを務めています。
その後、初アルバムの発売を通じて、国内外のリスナーに音楽が届けられることになりました。
ガレージで制作した『Approach to Anima』
2023年5月26日、maya ongakuは1stアルバム『Approach to Anima』を発表しました。
GURUGURU BRAINとBayon Productionから届けられたこの作品は、海外レーベルとの出会いによって生まれた初めてのアルバムです。
しかし、録音に使ったのは設備の整った大型スタジオではありませんでした。
園田の実家の会社にある空きスペースを利用し、メンバーで防音室を作って録音していたのです。
当時のEYESCREAMのインタビューで園田は、会社の空きガレージに機材を持ち込んでいたと説明しています。
後に高野がベース・マガジンで振り返ったところによれば、防音室は約1.5畳ほどの広さでした。
アンプをその中に置いてケーブルを外へ出したり、池田が交代で入り、イヤホンを使ってサックスを録音したりしていたそうです。
初アルバムの制作方法も、即興演奏をそのまま一発録りするものではありません。
AKGのマイク1本を中心に使い、楽器をパートごとに分けて録音していました。
例えば、まずバスドラムをクリックに合わせて録り、その音を基準に高野がベースを演奏します。
ただし、ベースのタイミングがわずかに揺れるため、後からバスドラムの位置をベースへ寄せることもありました。
最初からすべてを機械的にそろえるのではなく、演奏したときの気持ちよさに合わせて録音を調整していたのです。
また、楽曲に使うパーカッションも、メンバーが持っているものを集めて録音しました。
トライアングルやシェイカー、ジャンベ、ボンゴなどに加えて、スネアドラムのリムショットも使用しています。
一般的なロックバンドのドラム演奏を再現するのではなく、楽曲に必要な音をひとつずつ選んでいました。
曲によっては、フィールドレコーディングも加えられています。
高野はQeticの対談で、水の音が必要な曲には水音を、森をイメージした曲には鳥の声などを録音して使ったと説明しています。
音楽の骨組みだけでなく、周囲の環境で鳴る音も作品の一部として扱っていました。
録音後のミックスも園田自身がLogicを使って担当しています。
最初は自分たちでデモを作り、後から本格的な録音に進むつもりだったそうです。
ところが、実際に録音を続けるうちに、その音を作品として完成させることに面白さを感じるようになりました。
園田はQeticの対談で、録音によって考え方が変化したことを次のように表現しています。
レコーディング自体がほぼ作曲の一部
園田努/出典:Qetic「越境していく音楽──対談:maya ongaku × Go(幾何学模様)」
曲を作るとは、コードやメロディーを決めることだけではない。
どの楽器で音を鳴らすか、どのような響きで録るか、自然の音をどこに加えるかまでが、園田にとっては創作の一部になっていました。
ジャムセッションから始まったmaya ongakuは、初アルバムの制作を通じて、録音そのものを音楽表現として扱うバンドへ変わっていきました。
音楽理論や高価な機材を最初から十分に備えていたわけではなく、限られた環境で試しながら作品を完成させたことも、初期のmaya ongakuを語るうえで大切な出来事です。
海外での活動を通じて変化したmaya ongakuの音楽
『Approach to Anima』の発表後、maya ongakuの活動は湘南から海外へと広がっていきました。
一方で、活動範囲が大きくなっても、3人は作品制作の方法や地元との関係を大きく手放すことなく、音楽を続けています。
幾何学模様との出会いから海外ツアーへ
maya ongakuが海外へ活動を広げるうえで、幾何学模様とGURUGURU BRAINとのつながりは重要でした。
2022年12月の幾何学模様の公演でオープニングアクトを務めた後、2023年5月に初アルバムを発表。
同年11月にはヨーロッパとイギリスを巡るツアーを行い、海外での演奏活動を本格化させました。
2025年4月には初めてのアメリカツアーも実施しています。
そのツアーでは、シアトルの非営利ラジオ局KEXPのスタジオで演奏を収録しました。
公開された映像では、「Anoyo Drive」「Melting」「Iyo no Hito」の3曲を披露しています。
これは海外公演の記録であると同時に、初期のジャムセッションから発展した3人の音楽が、どのようなライブ表現になったのかを確認できる資料でもあります。
ただし、maya ongakuが海外活動を続けている理由は、単に活動規模を大きくするためだけではありません。
2026年のNiEWで園田は、幾何学模様のメンバーが、自分たちの望む活動と望まない活動を明確に選び取っている姿から影響を受けたと説明しています。
ひとつの国で大きな成功を目指すだけでなく、複数の国で少しずつ音楽を届けながら、自分たちの活動を続けていく。
そうした方法を、園田は大切にしていました。
また、海外でのライブが増えると、移動や公演を重ねることによる負担も生まれます。
園田は2025年にライブを多く行ったことで疲れを感じる時期があり、3人で話し合いながら活動のペースを調整したと振り返っています。
2026年前半にはライブ活動を一時的に控え、それぞれが旅行をする時間も設けました。
これはバンドの解散や長期活動休止ではなく、その後の作品制作へ向けて活動のペースを整える期間でした。
江ノ島の一軒家で、仲間と音楽を演奏しながら自分たちの生き方について話していた頃から、活動を自分たちで決めたいという考えは続いているようです。
初期の即興から「音」と「沈黙」を考える制作へ
海外活動と並行して、maya ongakuの音楽制作も変化していきました。
初期はワンコードの反復や即興演奏が中心でしたが、2024年8月に発表したEP『Electronic Phantoms』では、電子音をさらに積極的に取り入れています。
園田は2026年のギター・マガジンで、カン、クラフトワーク、ノイ!などのジャーマンロックへの敬意を、このEPに込めたと明かしています。
また、カンのボーカリストとして知られるダモ鈴木への追悼の思いも、制作の背景にありました。
ただし、maya ongakuの音楽が単純にサイケデリックロックから電子音楽へ変わったというわけではありません。
園田は、自分たちからサイケデリックロックを名乗ってきたわけではないと説明しています。
特に関心があったのは、持続する音や反復によって生まれる響きでした。
その考えは、2026年8月に発表した2ndアルバム『Nothing Space Music』にもつながっています。
このアルバムでは、アコースティックギター、電子音、サックスやフルートなどの響きを重ねながら、初期作品とは異なる静かな表現を深めています。
制作場所も変わりました。
3人は2025年11月頃から、神奈川県平塚市にある、以前は音楽教室だった建物を新しいスタジオとして整備し始めました。
内装工事には高野とその父親も関わり、2026年初め頃に制作環境が整えられたといいます。
それまでの小さな防音室とは違い、広い室内の響きも録音できるようになりました。
高野はベース・マガジンで、マイクを置く自由度が高くなり、録音方法の選択肢が広がったと説明しています。
一方、録音を外部の大規模スタジオへ任せるのではなく、自分たちで演奏と録音を繰り返しながら楽曲を仕上げる方法は続いています。
2026年のアルバムでは、まず園田がアコースティックギターや歌を中心にデモを作り、高野と池田がそこへ演奏を加えていく方法が取られました。
園田は曲の構成や必要な音域を考えますが、ベースやサックスの具体的なフレーズをすべて指定するわけではありません。
それぞれが提案したフレーズを演奏し、3人で聴きながら採用する音を決めていきます。
高野は2026年10月のベース・マガジンで、納得できる演奏が見つかるまで、みんなで考えながら演奏と録音を繰り返していたと語っています。
この制作方法は、江ノ島で即興演奏を続けていた頃の感覚とも通じています。
ただし、園田の曲作りの考え方は、長年の活動を通じてさらに深まっていました。
ギター・マガジンでは、以前聴いた音楽を正確に再現するのではなく、記憶のなかで変化したイメージから新しい音楽が生まれることに関心があると説明しています。
同じレコードを聴いていても、人によって覚えている響きは異なります。
その違いや記憶のずれが、音楽を作る面白さにつながるという考えです。
さらに『Nothing Space Music』では、音が鳴っている時間だけでなく、音によって覆い隠されてしまう静けさにも関心が向けられました。
園田は2026年のFUJI ROCK FESTIVAL公式ファンサイトのインタビューで、大きな会場で音を増幅し続ける活動に魅力を感じながらも、小さな音への注意が失われることに違和感を抱いていたと説明しています。
またNiEWでは、自分たちの音楽が単なる現実逃避の手段として聴かれるだけでなく、聴き手が世界について考えるきっかけにもなってほしいという思いを語っています。
初期のmaya ongakuが長い即興演奏のなかで音の変化を探っていたとすれば、2026年の作品では、音を鳴らさない時間や、静かな音を聴くことにも意識が向けられています。
最初に「maya」という曲を作ったとき、園田が考えていたのは、目に見えないものを想像によって捉えることでした。
その後も、聴こえる音だけでなく、その背後にあるものへ意識を向ける姿勢は、作品のなかに残っています。
学校時代からの友人たちが、江ノ島の一軒家で即興演奏を始め、バンドになり、録音を学び、海外へ演奏を届けるようになったmaya ongaku。
その音楽の歴史は、3人が共有してきた感覚を土台に、新しい演奏方法と表現を探し続けてきた歩みでもあります。

