「奏(かなで)」や「全力少年」などで知られるスキマスイッチは、大橋卓弥と常田真太郎のソングライター2人によるユニットです。
大橋がボーカルとギター、常田がピアノとコーラスを担い、2003年7月9日にシングル「view」でメジャーデビューしました。
2人とも愛知県出身ですが、子どものころから同じように音楽を学んできたわけではありません。
大橋は小学生からピアノを習っていた一方、常田が演奏する側へ進んだ大きな入口は高校時代のバンド活動でした。
しかも、高校時代に知り合った2人は、その場で意気投合してユニットを組んだわけでもありません。
スキマスイッチの直接の始まりは、上京後、大橋が自分の曲のアレンジと録音を常田へ頼んだことでした。
今回は、2人それぞれの音楽との出会いから、高校時代の初対面、1999年の結成、名前の由来、デビュー前の活動、そして「奏」「全力少年」へ至るまでをたどります。
| メンバー | 担当 | 初期の音楽体験 |
|---|---|---|
| 大橋卓弥 | Vo/Gt | クラシックピアノ、ビートルズ、父親のレコードなど |
| 常田真太郎 | Piano/Cho | 実家の喫茶店の有線、姉と聴いた音楽、高校時代のバンドなど |
大橋卓弥と常田真太郎、それぞれの音楽の原点
同じユニットで曲を作るようになった2人ですが、音楽への入口はかなり違います。
大橋には幼いころからピアノを弾く環境があり、常田は身の回りで流れていた音楽を耳で吸収しながら、高校生になってから演奏する側へ入っていきました。
大橋卓弥はクラシックピアノとビートルズに親しんだ
大橋卓弥は1978年、愛知県東海市生まれ。
幼いころからクラシックに触れ、小学生になるとピアノを習い始めました。
本人は後年、子どものころについて次のように振り返っています。
クラシックのピアニストになりたいと思ってました
出典:J-WAVE NEWS「スキマスイッチ、出会いは衝撃だった!? 『ものすごい下手くそで……』」
ポップスとの印象的な出会いのひとつがビートルズでした。
友人宅の電話の保留音から「イエスタデイ」を知り、小・中学生時代によく聴くようになったことがSony Musicの公式プロフィールにも残っています。
家庭でも音楽は身近でした。
父親が聴いていたCHAGE and ASKA、サザンオールスターズ、荒井由実などのレコードや音楽にも触れています。
とくに荒井由実のアルバム『ひこうき雲』に収められた「雨の街を」は子どものころから印象に残り、メロディをピアノでコピーしていたと本人が語っています。
常田真太郎は高校時代のバンドで演奏する側へ
常田真太郎は1978年、愛知県名古屋市生まれ。
大橋とは対照的に、子どものころからピアノ教室へ通っていたわけではありません。
父親が喫茶店を営んでおり、店で流れていた有線放送やFM、姉と一緒に見ていた歌番組などが身近な音楽との接点でした。
母親が好きだったオフコースを有線で聴いたことや、ゲームのサウンドトラックなども音楽体験として本人が挙げています。
さらに槇原敬之の音楽に触れ、自分でもシンセサイザーを買って見よう見まねで音を作るようになりました。
実際にバンド活動へ踏み出したのは高校時代。文化祭で組んだバンドをきっかけに音楽に目覚め、卒業後は複数のバンドへキーボード奏者として参加するようになります。
レコーディング・エンジニアの仕事や楽曲アレンジも経験していきました。
高校時代のライブで2人が出会った
大橋と常田が初めて接点を持ったのは、まだ愛知県で暮らしていた高校時代でした。
ただし、この出会いからスキマスイッチ結成までは、さらに数年あります。
大橋が客席から常田の演奏を見たのが最初
大橋が高校3年生だったころ、共通の友人からライブへ誘われます。
そのステージで演奏していたのが、1学年上の常田でした。
ライブ終了後に友人から紹介され、2人は挨拶を交わします。
後年のインタビューでは、大橋が当時の常田の演奏をかなり辛口に振り返り、常田も大橋を「怖かった」と回想しています。
のちに長く曲を作る2人ですが、最初の出会いは「すぐに一緒に音楽をやりたい」と感じるようなものではありませんでした。
上京後は別々のバンドで活動していた
高校卒業後、先に東京へ出たのは常田でした。
18歳で上京し、三軒茶屋で暮らし始めます。
約1年後には大橋も上京し、同じ三軒茶屋で生活するようになりました。
近くに住んではいたものの、この時点でも2人は別々のバンドで活動しています。
常田は以前から大橋へ一緒に活動しようと声をかけていましたが、大橋はすぐには応じませんでした。
大橋自身もピアノを弾けたため、ピアノ奏者の常田とあえて組む必要を感じていなかった時期があったのです。
1曲のアレンジ依頼からスキマスイッチが結成
状況が変わったのは、それぞれが続けていたバンド活動が終わったあとでした。
ソロで曲を作っていた大橋と、アレンジや録音の経験を積んでいた常田が、1曲の音源制作を通じて再び接近します。
バンド解散後の大橋が常田へ自主制作CDを依頼
大橋は自身のバンドが解散したあと、一人で曲を書き、渋谷などでストリートライブをしていました。
ライブを聴いた人に持ち帰ってもらえる作品を作りたいと考え、レコーディングやアレンジをしていた常田へ声をかけます。
大橋が頼んだのは、自作曲1曲のアレンジと録音でした。
完成した音源を常田が自身のアレンジ作品として関係者へ持ち込んだところ、「2人で組んでいるのか」と聞かれます。
常田はその場で2人で活動していると答え、大橋へ話を持ち帰りました。
公式プロフィールが「1999年、大橋が自分の曲のアレンジを常田に依頼したのがきっかけ」と記しているのは、この一連の出来事です。
最初から2人で活動するつもりではなかった
常田にとっては以前から大橋を誘っていた流れの先でしたが、大橋の温度感はかなり違いました。
真太くんと一緒にやる気はなくて(笑)
出典:J-WAVE NEWS「スキマスイッチ・大橋、ユニット結成は想定外だった!? 『真太くんと一緒にやる気はなかったんです(笑)』」
当初は自分のソロ活動と常田との活動を並行させるつもりでした。
ところが2人で曲を作り始めると、一人で作るときより楽曲の世界が広がる面白さを大橋も感じるようになります。
やがて常田との活動が中心になり、1999年にスキマスイッチとしての歩みが始まりました。
古いアパートの「スキマ」と「スイッチ」が名前になった
ユニット名が決まったのは、自主制作CDを宅録で作っていたころです。
音源が完成した段階でグループ名がないことに気づき、部屋にあるものを口に出して、響きのよい言葉を組み合わせることにしました。
そこで候補になったのが「スイッチ」と「スキマ」です。
「スイッチ」は部屋にあった照明などのスイッチ。
「スキマ」は、古いアパートの建て付けが悪く、ふすまや窓がきちんと閉まらず隙間ができていたことから出てきた言葉でした。
大きな理念を先に作って名付けたのではなく、「スキマスイッチ」という音の響きから名前が決まったことを2人は後年も語っています。
公式YouTubeでは、常田が上京したころの場所をたどりながら、「奏」「全力少年」やスキマスイッチという名前が生まれた家について2人自身が振り返っています。
デビュー前の4年間で曲とライブを積み重ねた
スキマスイッチは1999年に結成しましたが、すぐにメジャーデビューしたわけではありません。
2003年の「view」までには約4年間があり、この時期に曲作りとライブの両方を重ねています。
2001年から新宿・渋谷で本格的なライブ活動
2001年には、新宿や渋谷を拠点として本格的なライブ活動を開始しました。
結成から約2年が経った時期で、まだ「奏」や「全力少年」が世に出る前です。
ライブだけでなく、2人はこの時期から楽曲制作にもかなりの時間を使っていました。
「雨待ち風」が事務所との縁につながった
初期のスキマスイッチを考えるうえで重要な曲のひとつが「雨待ち風」です。
シングルとして発売されたのは2005年ですが、曲自体はそれよりかなり前に作られていました。
常田は2005年のBARKSのインタビューで、制作したのは約4年前だったと説明しています。
その初期の「雨待ち風」をスタッフが聴いたことが、所属事務所との縁につながったとも明かしました。
当時は曲を十分に表現できないと判断して寝かせ、活動を重ねてから作品として仕上げています。
後年のシングルを生むだけでなく、デビュー以前の段階で進路を動かした曲でもありました。
デビュー前に約100曲のストックを作った
デビュー前の時期には、とにかく多くの曲を書いています。
スタッフから、デビュー後は忙しくなり制作時間を取りにくくなるため、事前に曲を作っておいた方がよいと助言されていました。
ストックは100はあったと思います
出典:J-WAVE NEWS「20周年のスキマスイッチ、デビュー前に100曲のストックを作って…活動を振り返る」
スタッフと定期的に曲を聴く機会もあり、作りためた曲がデビュー後の活動を支えました。
「雨待ち風」のように、すぐ作品化せず数年後に改めて向き合った楽曲があることからも、デビュー前の制作期間がその後の作品へ持ち越されていたことが分かります。
2002年AUGUSTA CAMPが大きな舞台に
2002年8月には「AUGUSTA CAMP 2002」のサブステージへ出演しました。
会場は千葉マリンスタジアムで、公式プロフィールでは約3万人の観客を前に演奏した出来事として記録されています。
その後は口コミが広がり、ライブの動員も増えていきました。
1999年の結成から曲を作り、2001年からライブ活動を本格化し、2002年には大規模イベントのステージを経験する。
その流れを経て、翌年にメジャーデビューを迎えます。
2003年「view」でメジャーデビュー
2003年7月9日、スキマスイッチは1stシングル「view」でメジャーデビューしました。
オーガスタレコードの第一弾新人としてのデビューでした。
「view」は全国のFM局でパワープレイを獲得
「view」は全国30局のFM局でパワープレイやヘビーローテーションを獲得しました。
同年9月にはデビュー・ミニアルバム『君の話』も発売しています。
ただし、スキマスイッチの歩みを「viewを出してすぐ全国的に大ブレイクした」と一本化するのは実態と少し違います。
デビュー翌年の2004年、さらに2005年と、段階を踏んで支持が広がっていきました。
デビューまで4年かけて作った土台
1999年の結成から「view」までの約4年間には、ストリートライブ、録音、アレンジ、曲作り、本格的なライブ活動、大規模イベント出演がありました。
さらに約100曲というストックも作られていました。
デビュー後も2人は外部のプロデューサーへ作品全体を委ねるのではなく、自分たちでアレンジやプロデュースに向き合っていきます。
常田は後年、デビュー前に外部プロデューサーを立てたいと相談したものの、「自分たちでやれ」という趣旨の言葉を受け、それ以降もセルフプロデュースを続けてきたと振り返っています。
「奏」から「全力少年」へ、段階的に支持が広がった
「view」でデビューしたスキマスイッチが広く知られていく過程では、ひとつの曲だけで状況が突然変わったわけではありません。
2004年の「奏」と1stアルバム『夏雲ノイズ』、そして2005年の「全力少年」と2ndアルバム『空創クリップ』へと、いくつもの出来事が重なっていきます。
2004年「奏」は時間をかけて広がった
2004年3月10日に発売された2ndシングルが「奏(かなで)」です。
発売前からラジオや有線で流れ、オリコンのシングルチャートでは初登場22位を記録しました。
発売直後にチャート1位を取ったタイプのヒットではありません。
公式プロフィールでも「ロングセラー」とされ、時間をかけて聴き手を広げていった曲として位置づけられています。
のちにスキマスイッチを代表する1曲になったため、「奏が出た瞬間にすべてが変わった」と見えやすいものの、初期の歩みはもっと段階的でした。
『夏雲ノイズ』と初全国ワンマンで支持を拡大
2004年6月には「ふれて未来を」に続いて、1stアルバム『夏雲ノイズ』を発売します。
『夏雲ノイズ』はオリコンのアルバムチャートで初登場2位を記録しました。
アルバムを携えた初の全国ワンマンツアーと追加公演も全会場が完売。
同年11月の「冬の口笛」はシングルでは初めてオリコンのトップ10に入り、初登場6位を記録しています。
「奏」だけではなく、アルバムとライブを含めた2004年の積み重ねによって、スキマスイッチは最初の大きな飛躍を迎えました。
2005年「全力少年」と『空創クリップ』が大きな転機に
さらに大きな動きがあったのが2005年です。
4月20日に発売した「全力少年」は、オリコンのシングルチャートで初登場3位を記録しました。
スキマスイッチのシングルとして、それまでで最も高い順位でした。
6月には、デビュー前から存在していた「雨待ち風」を6thシングルとして発売。
7月20日には2ndアルバム『空創クリップ』を発表し、オリコンのアルバムチャートで初登場1位を獲得します。
同作を携えた全国ホールツアーでは22公演を行い、その年の大みそかにはNHK紅白歌合戦へ初出場しました。
高校時代にライブ会場で知り合った2人は、上京後も別々に活動し、1曲のアレンジ依頼から1999年にスキマスイッチを結成。
そこから約4年をかけて「view」でデビューし、「奏」で支持を広げ、「全力少年」と『空創クリップ』を経て、2005年には初の紅白歌合戦のステージに立ちました。

