Original Loveの結成史|田島貴男の音楽の原点から「接吻」誕生まで

Original Loveの結成史と「接吻」誕生までの音楽ルーツを、田島貴男をモデルにしたギターを持つ人物とレコード・カセットテープで表したビジュアル バンド
メンバー担当
田島貴男ボーカル・ギター、作詞・作曲
小里誠ベース(前身バンドの初代メンバー)
秋山幸広ドラム(前身バンドの初期メンバー)
村山孝志ギター(前身バンドの初期メンバー)
1980年代の前身バンド「レッド・カーテン」で活動した主要メンバー。最初のスタジオ演奏では別のドラマーが参加しており、結成当初からこの4人だったわけではありません。1995年以降、Original Loveは田島貴男のソロユニットとして活動しています。

「接吻」「朝日のあたる道」「プライマル」など、ソウルやロックの要素を取り入れた日本語のポップスで知られるOriginal Love(オリジナル・ラブ)。

その始まりは、田島貴男が大学時代に自作のデモテープを友人に聴かせ、バンドを組むことになった1985年にさかのぼります。

Original Loveの前身は「レッド・カーテン」というバンドで、1987年に改名し、1991年にメジャーデビューしました。その後、メンバーの入れ替わりを経て、1995年から田島貴男のソロユニットへと移行しています。

しかし、田島が自分の音楽を作り始めたのは、バンド結成よりもずっと前のことでした。中学1年生から自宅で録音を重ね、高校卒業までには約100曲ものストックを持っていたといいます。

小里誠との出会い、ライブハウスでの門前払い、小西康陽に誘われたピチカート・ファイヴでの活動。そして、時間に追われる制作現場から生まれた「接吻」。田島が一人で始めた曲作りは、いくつもの出会いを経てOriginal Loveの音楽になっていきました。

音楽史の段階Original Loveの歩み
音楽の原点田島貴男が中学1年生からギターと自宅録音で作曲を始める。
前身バンドの始動1985年、大学時代に小里誠らとバンド活動を開始。レッド・カーテンとして活動する。
初ライブと改名1986年に渋谷La.mamaで初ライブ。1987年、Original Loveへ改名。
重要な出会いと初期音源小西康陽との出会いから1988年にピチカート・ファイヴへ加入。同年、Original Loveの自主制作アルバムも発表。
メジャーデビュー1991年、シングル「DEEP FRENCH KISS」とアルバム『LOVE! LOVE! & LOVE!』でデビュー。
代表曲と活動形態の変化1993年に「接吻」、1994年に『風の歌を聴け』を発表。1995年以降は田島のソロユニットへ移行。

田島貴男の音楽は中学時代の自宅録音から始まった

田島貴男が音楽に深く関わるようになったのは、中学生になってからです。

洋楽ロックが好きな同級生との出会いをきっかけにギターに興味を持ち、やがて演奏だけでなく、自分で曲を作ることに夢中になっていきました。

中学1年で始めたピンポン録音と100曲のストック

最初に手にしたギターは、親戚の家から譲り受けたクラシックギターでした。

田島は2026年のGibson Japanのインタビューで、中学校に入ってから洋楽ロックを聴く友人ができ、自分もエレキギターを弾きたくなったと振り返っています。

その後、お年玉を貯めて初めてのエレキギターを購入。学校帰りには楽器店へ通い、夜はギターのパンフレットを布団の周りに並べるほど楽器に熱中していました。

夕食中もギターを膝に置いて練習する生活でしたが、約1年が過ぎると関心は演奏そのものから作曲へ移っていきます。

田島は2016年のmoraのインタビューで、当時の自分を次のように表現しています。

僕は宅録少年でした。

出典:moraトピックス「デビュー25周年! ORIGINAL LOVE 田島貴男 スペシャルインタビュー」(2016年6月1日)

中学1年生から取り組んだのは、録音した音を重ねて曲を作る「ピンポン録音」という方法です。

音を重ねながら一人で曲を形にする作業を続け、高校を卒業する頃には約100曲もの作品を作りためていました。

後にOriginal Loveはライブでの演奏にも力を入れるバンドになりますが、出発点には、一人で録音を重ねながら音楽を完成させていく制作スタイルがありました。

そのため、大学に入ってバンドを結成した際も、最初から田島自身のデモテープが活動の土台になっています。

パンクとニューウェイヴから広がった音楽の世界

田島が10代の頃に親しんだ音楽には、ビートルズなどのロックに加え、パンクやニューウェイヴがありました。

後年のインタビューでは、高校時代に聴いていた音楽として、イギリスのThe Cure、Gang of Four、Echo & The Bunnymenなどを挙げています。

また、XTCやトッド・ラングレンの音楽も好きで、複雑なコードを使いながら曲を作ることに関心がありました。

Original LoveというとソウルやR&Bの印象が強いかもしれませんが、田島の初期の音楽的な土台には、パンク、ニューウェイヴ、ギターポップの要素がありました。

この時期に培った曲作りの経験が、大学入学後にバンドを始める際の大きな材料になります。

1985年、レッド・カーテン結成へ

1985年、田島は福島県郡山市から上京し、和光大学へ進学しました。

東京での大学生活が始まると、自分が作った曲をバンドで演奏する機会を求めるようになります。

このとき結成したバンドが、Original Loveの前身となるレッド・カーテンです。

小里誠が田島のデモテープを聴いてバンドへ

結成のきっかけを作ったのは、初代ベーシストとなる小里誠との出会いでした。

2026年5月の音楽ナタリーのインタビューで、田島は、自分が作っていたデモテープを聴いた小里が高く評価し、田島の曲をバンドで演奏しようと提案したことを明かしています。

一人で録音していた田島の楽曲を、小里誠が「バンドで演奏する音楽」として受け止めたことが、結成を決めるきっかけでした。

小里自身もXTCやトッド・ラングレンを好み、音楽の知識が豊富だったといいます。

最初にスタジオへ入ったのは1985年頃。田島、小里、大学時代の友人であるドラマーの3人でした。

このドラマーは長く在籍せず、その後、秋山幸広がドラムを担当するようになります。

さらに小里の友人だった村山孝志がギタリストとして加わり、4人編成になりました。

村山を迎えた理由も、田島の作曲方法と関係しています。

自宅で制作していたデモテープではギターを2本、3本と重ねて録音していたため、3人で演奏すると音が物足りなかったのです。

そこでギタリストを増やし、録音で作り上げていた音をバンドでも表現できる編成へと近づけました。

なお、1985年は公式プロフィール上の結成年ですが、田島自身は、レッド・カーテンというバンド名が付いたのは1986年だったかもしれないとも振り返っています。

ライブハウスを回り、La.mamaで初ステージを実現

バンドを結成した田島が次に目指したのは、東京のライブハウスで演奏することでした。

福島にいた頃から東京のライブハウスに憧れており、高校時代から親しかった木暮晋也と一緒に、自分たちのバンドのデモテープを持ってライブハウスを回りました。

しかし、当初は相手にしてもらえませんでした。

新宿LOFTやクロコダイルなど、新宿・渋谷のライブハウスを10軒ほど回ったものの、出演の申し込みは断られたといいます。

そんななか、渋谷La.mamaの店長から、貸し切りであれば出演できるという話がありました。

提示された貸し切り料金は20万円。当時の田島たちにとって、簡単に用意できる金額ではありませんでした。

しかも、共演する予定の木暮は、まだ自分のバンドを結成していませんでした。

出演日程を押さえた後、木暮は音楽雑誌『FOOL’S MATE』でメンバーを募集。高桑圭、白根賢一らが集まり、ワウワウ・ヒッピーズというバンドを結成します。

一方の田島は、ライブの費用をまかなうため、自らチケットを販売しました。

大学のキャンパスだけでなく、小田急線の鶴川駅前に立ち、通りかかった人にチケットを手売りしていたというエピソードが残っています。

こうして1986年10月28日、渋谷La.mamaでイベント「マジカル・ナイーブ音楽館」が開催されました。

レッド・カーテンやワウワウ・ヒッピーズなどが出演し、会場は満員になりました。

田島にとって、これが初めてのライブ出演でした。

イベントの成功後、La.mamaの店長から定期的に出演してよいという話があり、ほかのライブハウスからも声がかかるようになります。

それまで自宅で録音を中心に曲を作っていた田島は、人前で繰り返し演奏するうちに、ライブそのものの面白さを知っていきました。

1987年、Original Loveへの改名と二つの音楽活動

1987年、レッド・カーテンはOriginal Loveへと名前を変えました。

この時期にはライブ活動に加えて、インディーズレーベルのコンピレーション盤への参加も始まり、田島の音楽活動は広がっていきます。

The Feeliesの楽曲名から生まれたバンド名

Original Loveという名前は、アメリカのバンドThe Feeliesの楽曲「Original Love」に由来しています。

田島は2026年の音楽ナタリーのインタビューで、レッド・カーテンという名前は自分が付けたものではなく、別の名前を考えていたと語っています。

そこで思い付いたのが、好きだったThe Feeliesの曲名でした。

小里誠は新しい名前に賛成しましたが、秋山幸広はレッド・カーテンのほうがよいと反対していたそうです。

田島にとって改名は、単に響きのよい名前を選ぶ以上の意味もありました。

当時のレッド・カーテンは、1960年代の音楽を取り入れたネオGSやガレージロックのシーンでも演奏していましたが、田島自身はそれだけを表現したかったわけではありません。

むしろ高校時代から親しんでいたニューウェイヴの感覚に近く、より新しい音楽のイメージを持つOriginal Loveという名前が、自分たちの音楽に合っていると考えていました。

1987年7月には、Original Loveへ改名してから初めてのライブを新宿LOFTで行っています。

小西康陽との出会いとピチカート・ファイヴ加入

1987年、Original LoveはインディーズレーベルMINT SOUNDのクリスマス・コンピレーションアルバムに「CHRISTMAS NO HI」で参加しました。

この企画に関わるイベントで、田島はピチカート・ファイヴの小西康陽と出会います。

小西はOriginal Loveのライブを見て田島の音楽に興味を持ち、ピチカート・ファイヴへの加入を持ちかけました。

当時のピチカート・ファイヴは、作曲もできるボーカリストを必要としていました。

田島は誘いを受け、1988年にピチカート・ファイヴへ加入。ただしOriginal Loveを辞めたのではなく、二つの活動を並行して続けました。

その後の音楽に大きな影響を与えたのが、ピチカート・ファイヴのレコーディング現場でした。

田島は、それまで自分のバンドで譜面をほとんど書かず、編曲のイメージを口頭で伝えていました。

しかし、ピチカート・ファイヴでは、まず楽曲の構成譜を作り、ベースやドラムなどの演奏者を決め、パートごとに録音していく方法が取られていました。

1988年のアルバム『Bellissima!』では、歌の録音にも細かい指示がありました。

田島は2026年のインタビューで、それまでバンドでは曲を通して歌うことが中心だったのに対し、『Bellissima!』では一部分ずつ歌い直す方法を経験したと振り返っています。

昼過ぎに始まった歌入れが翌朝まで続いたこともあり、当初は細かな歌唱指導に戸惑いを感じたそうです。

特に、スモーキー・ロビンソンのような柔らかい歌唱を求められた経験は、それまでの地声を中心とした歌い方とは違うものでした。

また、小西との音楽談義を通して、ボビー・ウーマックやThe Spinnersなどのソウルミュージックに触れる機会も増えました。

『Bellissima!』に収録された「誘惑について」は、田島自身が初めて作ったソウル色の強い曲として挙げている作品です。

この頃からOriginal Loveで制作する楽曲にも変化が現れ、「DEEP FRENCH KISS」も、この時期に生まれた曲でした。

1988年の自主制作アルバムに残る初期の音

ピチカート・ファイヴへの加入と同じ1988年、Original Loveはインディーズでアルバム『ORIGINAL LOVE』を発表しました。

これは1991年のメジャーデビュー作とは異なる、初期のバンドサウンドを記録した作品です。

この頃のOriginal Loveにはキーボードの正式メンバーがおらず、ギターを中心とした音作りが行われていました。

初期音源には、パンクやニューウェイヴ、サイケデリックなロックなど、当時の田島たちが親しんでいた音楽の要素が表れています。

一方、ピチカート・ファイヴでは、ソウルやポップスをスタジオで緻密に作り上げる経験を重ねていました。

田島は二つの活動の制作方法が違っていたと振り返っており、Original Loveでは自分たちの楽曲を演奏し、ピチカート・ファイヴでは小西らのコンセプトをもとに作品を作っていました。

ピチカート・ファイヴ側の契約の関係でOriginal Loveのメジャー契約はすぐには実現しませんでしたが、ライブで演奏する楽曲は増え続けていました。

その蓄積が、後の2枚組メジャーデビューアルバムにつながっていきます。

1991年、蓄積した楽曲でメジャーデビュー

1990年、田島はピチカート・ファイヴを脱退し、Original Loveでの活動に集中する道を選びました。

その翌年、東芝EMIからシングル「DEEP FRENCH KISS」とアルバム『LOVE! LOVE! & LOVE!』を発表し、メジャーデビューを果たします。

ピチカート・ファイヴを離れ、自分の音楽へ

ピチカート・ファイヴでは、1988年の『Bellissima!』に続き、『女王陛下のピチカート・ファイヴ』『月面軟着陸』などの制作に参加しました。

田島はボーカリストとして歌うだけでなく、作曲や制作にも関わり、スタジオで音楽を完成させるための知識を身につけていきます。

しかし、自分が書いた楽曲をOriginal Loveで表現したいという思いも持ち続けていました。

2016年のmoraのインタビューでは、ピチカート・ファイヴで3枚のアルバムを制作した後、Original Loveで自分の音楽を追求したくなったと説明しています。

1990年に脱退した後も、契約上の制約があったため、Original Loveで即座にメジャーデビューできたわけではありません。

それでもバンドのライブ活動は続いており、デビュー時にはすでに多くの楽曲が完成していました。

また、Original Loveのライブには複数のレコード会社の関係者が訪れるようになっていました。

そのなかで田島が信頼したのが、東芝EMIの新人発掘を担当していた加茂啓太郎です。

加茂はOriginal Loveのライブへ繰り返し足を運んでおり、その関係が東芝EMIからのデビューにつながりました。

2枚組『LOVE! LOVE! & LOVE!』が生まれた理由

Original Loveのメジャーデビューは、1991年6月14日のシングル「DEEP FRENCH KISS」から始まりました。

続く7月12日には、1stアルバム『LOVE! LOVE! & LOVE!』を発売しています。

このアルバムの特徴は、デビュー作でありながら2枚組だったことです。

その理由は、バンド結成からメジャーデビューまでの約6年間に作りためた楽曲が、非常に多かったからでした。

デビューのためにゼロから曲を作ったのではなく、長年のライブ活動で蓄積してきた楽曲を選びきれず、2枚組にすることになったのです。

メジャーデビュー直前には、バンドの編成も大きく変わっていました。

デビュー時の正式メンバーは、田島貴男、村山孝志、木原龍太郎、森宣之、宮田繁男の5人です。

木原がキーボード、森がサックス、宮田がドラムを担当し、ギター中心だった初期の編成とは異なる音作りができるようになりました。

なお、この時期の作品に参加していた井上富雄はサポートベーシストであり、田島も2026年の音楽ナタリーのインタビューで、正式メンバーではなかったと説明しています。

『LOVE! LOVE! & LOVE!』は、第33回日本レコード大賞でアルバム・ニュー・アーティスト賞を受賞しました。

ただし、田島自身はデビュー直後から大きく売れていたという認識ではなく、その後もしばらくは試行錯誤が続いたと振り返っています。

1992年の2ndアルバム『結晶 -SOUL LIBERATION-』では、ヒップホップでサンプリングされていたソウルやフュージョンなどの音楽を、生バンドで組み直してポップスにすることを考えていました。

また、デビュー作では主に田島が担っていた曲作りについて、ほかのメンバーにも作詞・作曲を依頼するようになっています。

中古レコード店とソウルミュージックが育てた音楽性

田島の音楽を変えた場所は、レコーディングスタジオだけではありません。

1980年代後半から1990年代初頭にかけて、田島は渋谷の中古レコード店「ハイファイ・レコード・ストア」でアルバイトをしていました。

働き始めたのはピチカート・ファイヴへの加入後で、Original Loveのメジャーデビュー後も、2ndアルバムの頃まで店に立っていたといいます。

店では大量のレコードを聴くことができ、それまであまり知らなかったカントリーやブルースにも触れました。

2026年の音楽ナタリーのインタビューでは、店にあったレコードのほとんどを聴いたと振り返っています。

小西康陽との出会いによってソウルミュージックの知識を広げ、レコード店ではアメリカのさまざまなルーツミュージックを吸収していました。

さらに、この店で田島に大きな影響を与えた人物が、店長の近本隆でした。

近本は、ミュージシャンだからといって特別扱いするのではなく、田島に対して厳しく接していたといいます。

田島は後年、その姿勢から学んだことが多かったと語り、小西と近本の二人に感謝していると振り返っています。

レコードを聴くこと、制作現場で演奏者と仕事をすること、ライブで人前に立つこと。それぞれの経験を重ねるなかで、Original Loveの音楽はギター中心の初期サウンドから、ソウルやR&Bを取り入れた表現へと変化していきました。

1993年「接吻」誕生|時間のない制作現場から生まれた代表曲

1993年、Original Loveはシングル「接吻」を発表しました。

日本テレビ系ドラマ『大人のキス』の主題歌として制作された楽曲で、Original Loveを代表する一曲となりました。

しかし、この曲は十分な時間をかけて計画的に制作されたわけではありません。

「接吻」はどのように作られたのか

「接吻」の制作依頼が届いたとき、締め切りまではほとんど時間がありませんでした。

田島は2016年のmoraのインタビューで、依頼を受けてから1日か2日ほどで曲ができたと振り返っています。

きっかけになったのは、自宅でギターを弾いていたときに浮かんだサビのメロディーでした。

使っていたのは、当時2万円ほどだったというエレキギターです。

サビのメロディーができると、そこからほかのメロディーも自然に浮かび、短期間で曲の形になっていったそうです。

歌詞を書く時間も十分にはなく、仕事で移動している間に書き上げました。

田島は「接吻」ができたときに手応えを感じた一方、これほど長く聴かれる曲になるとは予想していなかったと語っています。

また、「接吻」には前段階となる楽曲もありました。

田島が制作上の土台になった曲として挙げているのが「sweat and sugar night」です。

急な依頼を受けて短期間で完成した「接吻」ですが、そこに至るまでには、長年にわたってソウルミュージックを聴き、作曲を続けてきた経験がありました。

なお、当時のベースを演奏したのは小松秀行です。

田島は『EYES』の制作後にベーシストのオーディションを行い、小松が加入したと説明しています。

「接吻」は、バンドの編成が変化する時期に制作された楽曲でもありました。

田島貴男が目指したソウルと日本語のポップス

「接吻」は時間のない現場から生まれましたが、田島が目指していた音楽の方向性は明確でした。

2016年のmoraのインタビューによると、楽曲の依頼元は、もう少し軽く、おしゃれな雰囲気の音楽を求めていたといいます。

一方、田島が作りたかったのは、より深く、身体的な感覚を持つソウルミュージックでした。

それまで取り組んできたパンクやニューウェイヴ、ネオアコースティックとは異なる表現を目指していたのです。

また、田島は日本語のポップスを作ることも強く意識していました。

山下達郎や松任谷由実など、日本のポップスで高い完成度を実現してきた音楽家たちを意識し、サウンドだけでなく歌詞についても考えるようになっていました。

以前は音作りへの関心が強かった田島ですが、人々に届く楽曲を作るには歌詞も重要だと考え、阿久悠などの作詞家が書いた歌詞を読み込んでいたといいます。

海外のソウルミュージックから吸収した音楽性を、日本語で歌われるポップスとして成立させること。「接吻」の制作には、それまでの田島が試みてきた表現が反映されていました。

作曲方法についても、田島はギターを弾きながらメロディーが浮かぶのを待つことが多いと説明しています。

既存の楽曲を編集するように組み合わせるより、楽器を演奏するなかで自分のメロディーを作る方法を大切にしていました。

1993年の「接吻」は、そうした制作方法から生まれた楽曲です。

「THE FIRST TAKE」で再び歌われた「接吻」

2026年10月30日、Original LoveはYouTubeチャンネル「THE FIRST TAKE」に初出演し、「接吻」を披露しました。

第721回となるこの映像では、コーラス陣を迎えた特別編成で、1993年の代表曲を一発撮りで演奏しています。

田島は出演に際し、長年歌い続けてきた「接吻」について、次のようにコメントしています。

あの頃とは違う、「大人」になってきている楽曲だと思います。

出典:THE FIRST TIMES「Original Love『THE FIRST TAKE』初登場!」(2026年10月30日)

田島は、歌詞やメロディーそのものは変わっていなくても、1993年のリリースから歌い続けるなかで、楽曲が成長してきたと感じているそうです。

制作当時はドラマ主題歌の締め切りに追われ、わずかな時間で完成させた曲でした。

その曲を何十年にもわたって演奏し続けてきた田島の歌唱を、2026年の「THE FIRST TAKE」で聴くことができます。

この映像は、1993年に生まれたメロディーが、長年のライブ演奏を経て歌い継がれていることを示す記録にもなっています。

『風の歌を聴け』から田島貴男のソロユニットへ

「接吻」の発表後、Original Loveはさらに大きな転機を迎えます。

1994年にはアルバム『風の歌を聴け』を発表し、オリコンのアルバムチャートで初登場1位を記録しました。

その一方でバンドの編成は変化を続け、1995年以降は田島貴男のソロユニットとして活動する形になりました。

1994年のアルバムで確立したバンドサウンド

1993年の『EYES』から1994年の『風の歌を聴け』にかけて、田島は音楽の完成度をさらに高めようとしていました。

その過程で重要な存在となったのが、ベーシストの小松秀行です。

田島はベーシストのオーディションで小松の演奏を高く評価し、一緒に演奏したいドラマーについて尋ねました。

そこで小松が名前を挙げたのが、佐野康夫でした。

『風の歌を聴け』の制作では、田島、小松、キーボードの木原龍太郎が中心となり、演奏や音作りを進めています。

田島は、より本格的なサウンドを目指すため、音の作り方を一から考え直したと振り返っています。

ミックスを担当した森岡徹也らも含めて音作りに強くこだわり、制作現場では細かな調整が続きました。

ところが、制作期間は決して長くありませんでした。

田島によると、『風の歌を聴け』の制作にかけられた期間は約1か月でした。

多忙なスケジュールのなかで制作を進めたアルバムには、「朝日のあたる道」などの楽曲が収録されています。

資生堂のCMに起用された「朝日のあたる道」は、Original Loveの代表曲の一つとなりました。

アルバムがチャート初登場1位を記録したことは、1980年代から続けてきた音楽活動が、商業的にも大きな成果を挙げた出来事でした。

1995年以降、Original Loveが田島のソロユニットに

Original Loveは1985年に前身バンドとして活動を始めて以来、メンバーの入れ替わりを経験してきました。

初期の小里誠や秋山幸広らが在籍した時期、1991年のメジャーデビュー時の5人編成、「接吻」や『風の歌を聴け』の制作期では、それぞれ参加するミュージシャンが異なっています。

そして、1995年以降、Original Loveは固定メンバーによるバンドではなく、田島貴男のソロユニットとして活動する形になりました。

これはOriginal Loveという名前がなくなったという意味ではありません。

田島を中心に、作品やライブの内容に応じてほかのミュージシャンと演奏する活動が続いています。

田島自身も、ソロユニットとしての活動を続けるなかで、バンド編成だけに表現方法を限定してきたわけではありません。

2011年には、一人でループマシンを使いながら歌と演奏を重ねる「ひとりソウルショウ」を開始しました。

さらに、ギターによる弾き語りなど、少人数でも楽曲を表現できる活動を展開しています。

田島は2021年のReal Soundのインタビューで、バンドでの演奏を長く続けてきた一方、一人でステージに立つ表現にも取り組むようになった経緯を語っています。

中学時代に一人で録音を始めた田島は、大学時代に仲間とバンドを組み、ライブ演奏の面白さを知りました。

その後、ピチカート・ファイヴで緻密なレコーディングを経験し、Original Loveでソウルや日本語のポップスを追求。メジャーデビュー後も編成や演奏方法を変えながら、自らの音楽を作り続けています。

「Original Love」という名前は、1987年に田島が好きだったThe Feeliesの楽曲から選んだものでした。

その名前のもとで発表した「接吻」は、1993年から長く歌い継がれ、2026年には「THE FIRST TAKE」でも披露されています。

中学時代の自宅録音から始まった田島の曲作りは、バンド、スタジオ、ライブ、そして一人での演奏へと表現の形を広げながら、Original Loveの音楽として続いています。

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