電気グルーヴの音楽ルーツ|「人生」から結成、2人体制への歩み

電気グルーヴの音楽ルーツと結成の歩みをテーマに、男性2人のイラストとシンセサイザー、レコードを組み合わせたビジュアル この個性は気に入りましたか? グループ・ユニット
メンバー担当
石野卓球ボーカル・シンセサイザー
ピエール瀧ボーカル・瀧
電気グルーヴの2人体制。ピエール瀧の担当「瀧」は、公式プロフィールにも使われている独自の表記です。

「Shangri-La」や「N.O.」などの楽曲で知られる電気グルーヴは、1989年に石野卓球とピエール瀧らを中心に結成された音楽ユニットです。

結成の原点をたどると、二人がまだ静岡で暮らしていた高校時代に行き着きます。

石野卓球とピエール瀧は、電子音楽という共通の趣味をきっかけに知り合い、前身バンド「人生」での活動を経て、電気グルーヴを結成しました。

特に印象的なのが、16歳のピエール瀧が石野卓球の家を訪れ、New Orderの「Blue Monday」を初めて聴いた日のことです。

この出会いから始まった交流は、ステージでの共演につながり、やがて日本の電子音楽シーンに独自の足跡を残す活動へと発展していきました。

高校時代のレコードとの出会いから、1989年の結成、初期メンバーの変遷、2人体制で生まれた音楽までをたどります。

音楽史の段階電気グルーヴの歩み
音楽の原点石野卓球とピエール瀧が、それぞれ幼少期にシンセサイザーや電子音楽に興味を持つ
重要な出会い高校時代、共通の友人を介して知り合い、New Orderなどの音楽を通じて交流を深める
前身活動1985年、ピエール瀧が石野卓球のバンド「人生」に参加
結成・初期活動1989年に電気グルーヴを結成。1990年にインディーズ作品『662 BPM BY DG』を発表
デビューと音楽的転換1991年に『FLASH PAPA』でメジャーデビュー。砂原良徳の加入を経てテクノへの志向を強める
2人体制と活動再開1999年に砂原良徳が脱退。2001年の活動休止と2004年の再開を経て、石野卓球とピエール瀧による制作を続ける

電子音楽でつながった石野卓球とピエール瀧

電気グルーヴの音楽的な原点には、二人が子どものころに感じていた電子音への興味があります。

石野卓球とピエール瀧は、それぞれ違う音楽を通じてシンセサイザーの音に親しみ、静岡で出会いました。

幼少期に出会ったシンセサイザーの音

石野卓球が小学生のころに強く興味を持った曲の一つが、リチャード・クレイダーマンの「恋はピンポン」でした。

2026年9月24日放送のJ-WAVE『GRAND MARQUEE』で、石野はこの曲を聴いた当時、どのような楽器で演奏しているのか想像できず、不思議に感じていたと振り返っています。

ピアノ演奏で知られるクレイダーマンの作品ですが、石野が関心を持ったのは、その曲で使われていたシンセサイザーの音でした。

一方、ピエール瀧が小学校5年生ごろに聴いて衝撃を受けたのは、YMO(イエロー・マジック・オーケストラ)の「TECHNOPOLIS」です。

瀧は、それ以前にも教育テレビなどを通じて電子楽器の音を耳にしていました。ただ、何となく未来的で不思議な音として認識していたものが、「TECHNOPOLIS」では一つの完成された楽曲になっていたことに引きつけられたそうです。

石野はシンセサイザーの音色そのものに、瀧はYMOが形にした電子音楽に、それぞれ強い興味を持っていました。

こうした音楽体験が、のちに二人が知り合うきっかけになります。

高校時代、共通の友人から石野卓球を紹介される

ピエール瀧が高校生になったころ、野球部の同級生たちと好きな音楽について話す機会がありました。

瀧は当時、YMOやドイツの電子音楽グループKraftwerkなどを好んで聴いていたといいます。

その話を聞いた友人から紹介されたのが、同じようにテクノや電子音楽が好きだった石野卓球でした。

2023年10月21日放送のTOKYO FM『川島明 そもそもの話』でも、瀧は高校時代に野球部の友人を通じて石野と知り合った経緯を語っています。

石野は高校時代から静岡市内でライブ活動をしており、瀧もそのライブを観に行くようになりました。

二人の出会いは、最初から一緒にバンドを組むためのものではありません。同じ音楽を好きだった高校生同士が、共通の友人を通じて知り合ったことから交流が始まりました。

初対面で聴いたNew Order「Blue Monday」

二人の音楽ルーツを語るうえで欠かせないのが、イギリスのバンドNew Orderの「Blue Monday」です。

2021年に公開された本人たちのトーク番組『Roots of 電気グルーヴ ~俺っちの音故郷~(仮)』で、ピエール瀧は石野卓球の家を初めて訪れたときのことを詳しく振り返っています。

二人が初めて会ったのは16歳のころ。夏の日、石野の部屋にはレコードプレーヤーがあり、そこで瀧に聴かせたのが「Blue Monday」でした。

瀧はそれまでYMOやKraftwerkを聴いていましたが、「Blue Monday」のビートは特に新鮮だったそうです。

それで君んちに足繁く通うようになるわけ。

出典:QJWeb「『Roots of 電気グルーヴ』#1:New Order」/ピエール瀧

石野にとっても「Blue Monday」は特別な曲でした。

1983年に高橋幸宏のラジオ番組で初めて耳にし、そのイントロに強く引きつけられたことを同じ番組で語っています。ラジオでは曲が途中でフェードアウトしてしまったことまで覚えているほどでした。

石野が衝撃を受けたレコードを瀧も気に入り、その体験をきっかけに瀧が石野の家へ通うようになったという、具体的な音楽の記憶が残っています。

本人たちは2021年の映像番組でも、New Orderと「Blue Monday」にまつわる思い出を語っています。

前身バンド「人生」から1989年の電気グルーヴ結成へ

高校時代に知り合った石野卓球とピエール瀧は、やがて同じステージに立つようになります。

二人が最初に共に活動したのは、電気グルーヴではなく、石野が中心となっていたバンド「人生(ZIN-SÄY!)」でした。

1985年、ピエール瀧が「人生」に参加

石野卓球は1985年に「人生」の活動を始め、同年、ピエール瀧も参加しました。

瀧は当初、石野たちのライブを観客として楽しんでいました。

TOKYO FM『川島明 そもそもの話』での回想によると、ライブを観に行くうちに、客席で大騒ぎするくらいならステージで騒いだ方がいいのではないか、という流れになったそうです。

その結果、瀧自身もステージに上がるようになりました。

瀧の音楽活動は、楽器の演奏者として加入する一般的なバンド参加とは異なり、ライブを観ていた立場からパフォーマンスをする側へ移ったことが大きな特徴です。

「人生」はナゴムレコードから作品を発表し、1986年にはシングル「9 TUNES FOR MIRAI」、1988年にはアルバム『SUBSTANCE V』をリリースしています。

ステージでのパフォーマンスや言葉遊びを含む表現は、二人が電気グルーヴを結成する前から取り組んでいた活動の一部でした。

2026年のJ-WAVEインタビューでは、石野が「人生」のステージで瀧がファミコンを操作していたことも回想しています。

瀧自身もシューティングゲームをしていたと認めており、観客はゲーム中の出来事にも反応していたそうです。

後年の「ボーカル・瀧」という役割につながる、初期の活動を理解できるエピソードです。

「人生」解散後、石野卓球が再び瀧を誘う

「人生」は1989年に解散しました。

これを受けて、石野卓球は新たな活動として電気グルーヴを立ち上げます。

一方のピエール瀧は、「人生」の解散によって音楽活動からいったん離れ、映像制作の仕事へ進もうとしていました。

高校卒業後に東京の医療系学校へ進学した瀧は、次第に学校へ通わなくなり、ミュージシャンのプロモーションビデオを制作する仕事に興味を持ったといいます。

映像制作会社に入ったものの、その直後に石野から再び声をかけられました。

電気グルーヴへの参加は、石野卓球が新しい音楽活動を始める際、以前から一緒にステージに立っていたピエール瀧を再び誘ったことによるものです。

瀧は2023年のTOKYO FMで、この経緯を振り返っています。

つまり、電気グルーヴは「人生」がそのまま名前を変えて活動を続けたというだけではありません。

前身バンドでの人間関係を引き継ぎながら、1989年に新しく成立した活動です。

1989年の結成と初ライブ、初期メンバーの顔ぶれ

電気グルーヴの結成は1989年4月27日です。

ソニーミュージックの旧公式年表には、この日に石野卓球とピエール瀧を中心として結成されたことが記録されています。

結成当初は二人だけではなく、複数の人物が参加していました。

初期の主要なメンバーには、石野卓球、ピエール瀧のほか、ギターを担当した若王子耳夫や、プログラミングに関わった高橋嵐らがいました。

最初のライブは1989年8月20日、大阪の十三ファンダンゴで行われています。

この日付と会場は、2015年公開のドキュメンタリー映画『DENKI GROOVE THE MOVIE? ~石野卓球とピエール瀧~』の公式資料でも確認できます。

当日の石野はセーラー服姿、瀧は手作りの帽子を身につけてステージに立ちました。若王子耳夫は事故によって欠場し、石野、瀧、高橋による出演になったと旧公式年表に記録されています。

電気グルーヴとしてのライブ活動は、こうした初期編成から始まりました。

その後、メンバーチェンジが進み、1990年には石野卓球、ピエール瀧、CMJKという3人体制へ移っていきます。

インディーズから1991年のメジャーデビューへ

電気グルーヴは結成後、ライブ活動と並行して音源制作を進めました。

1990年にインディーズ作品を発表し、翌1991年にはメジャーレーベルからアルバムをリリースします。

『662 BPM BY DG』とCMJKを迎えた初期活動

1990年6月、電気グルーヴはインディーズアルバム『662 BPM BY DG』を発表しました。

この作品には、後にメジャーデビューアルバムでも取り上げられる「電気ビリビリ」や「カフェ・ド・鬼」につながる初期の楽曲が収められています。

このころの電気グルーヴは、サンプリング、リズムマシン、電子音を用いた楽曲制作に取り組んでいました。

『662 BPM BY DG』は、結成初期の編成で制作された作品です。

その後、若王子耳夫と高橋嵐が脱退し、CMJKが加わりました。

インディーズ作品の時期とメジャーデビュー時では、メンバー構成がすでに変わっていたことが重要です。

初期作品に見られるラップやサンプリング、ダンスミュージックの要素は、1991年のアルバム制作へ引き継がれます。

TMNとの共演を経て『FLASH PAPA』を発表

1991年2月、電気グルーヴはTMNとの企画によるシングル「RHYTHM RED BEAT BLACK VERSION 2.0」に参加しました。

この作品には、電気グルーヴによる「RHYTHM RED BEAT BLACK Version 300000000000」が収録されています。

CDJournalの電気グルーヴ20年史では、これをメジャーで発表した最初の作品として紹介しています。

そして1991年4月10日、メジャーデビューアルバム『FLASH PAPA』をリリースしました。

公式プロフィールが1991年のメジャーデビュー作として挙げているのは、この『FLASH PAPA』です。

レコーディングはイギリス・マンチェスターで行われました。

当時の音楽には、アシッド・ハウス、ヒップホップ、マンチェスターのダンスミュージックなどの要素が取り入れられていました。

「電気ビリビリ」では石野卓球のラップが前面に出され、「カフェ・ド・鬼」でもサンプリングや電子音を使った独特の表現が展開されています。

1989年の結成から約2年で、電気グルーヴは自主的な活動を経てメジャーレーベルで作品を発表する段階に進みました。

近田春夫から受け取ったTR-909の音素材

初期の電気グルーヴがどのように電子音を作っていたのかについて、石野卓球は2021年の「渋谷カルチャー スクランブル」のインタビューで具体的に語っています。

そこに登場するのが、音楽家の近田春夫と、ローランドのリズムマシンTR-909です。

石野は、電気グルーヴがインディーズ作品を出すころ、近田からレコーディングの手伝いを頼まれたといいます。

その仕事では、既に基本部分が完成していた曲へ、石野が声のサンプリング素材を加える作業を担当しました。

石野が試行錯誤して制作したのは「Shinjuku Gigolo」のContinental Mixでした。

そして、この仕事を通じて近田から渡されたものが、TR-909の音を収録したDATでした。

当時、石野はTR-909の実機を所有しておらず、使用できるサンプルも手元になかったそうです。

近田が自らTR-909のさまざまな音を録音し、サンプリング素材としてまとめたものを受け取ったことで、初期の電気グルーヴの制作に使用できるようになりました。

初期の電気グルーヴのTR-909サウンドには、近田春夫が録音したサンプリング素材が使われていたのです。

これは、当時の電気グルーヴが高価な電子楽器をすべて自分たちで所有して制作していたわけではないことを示す、具体的なエピソードです。

近田との関係はその後も続き、1993年のリミックスアルバム『FLASH PAPA MENTHOL』では、近田が「Bingo!」の制作に参加しました。

石野はこのレコーディングで、録音した音を細かく聴き直す作業や、演奏の一部分だけを抜き出してミックスに使う方法にも触れています。

初期の音作りには、電子楽器そのものだけでなく、他の音楽家から受け取った素材や、スタジオで学んだ制作技術も関わっていました。

砂原良徳の加入とテクノへ向かった1990年代

1991年のメジャーデビュー後、電気グルーヴは再びメンバーチェンジを経験しました。

CMJKに代わって加入したのが、「まりん」の愛称で知られる砂原良徳です。

砂原を迎えた3人体制で、電気グルーヴは1990年代の重要なアルバムを制作していきます。

CMJK脱退後、「まりん」こと砂原良徳が加入

CMJKは1991年に電気グルーヴを脱退しました。

その後に加入したのが砂原良徳です。

砂原の加入年は1991年で、ソニーミュージックの公式プロフィールにも記載されています。

同年11月には、砂原を迎えた体制でアルバム『UFO』を発表しました。

さらに1992年には『KARATEKA』をリリースします。

石野卓球、ピエール瀧、砂原良徳という3人体制は、その後の『VITAMIN』『DRAGON』『ORANGE』『A』へと続いていきました。

砂原はグループ活動と並行して個人名義でも音楽制作を行い、1995年にはソロアルバム『Crossover』を発表しています。

砂原のソロ活動は、電気グルーヴから脱退した後に始まったものではなく、在籍中から並行していた活動でした。

電気グルーヴは、メンバーそれぞれが個別の音楽活動を持ちながら、ユニットとしての作品も作っていく形へ進んでいきます。

『VITAMIN』で強まったテクノへの志向

1993年12月、電気グルーヴはアルバム『VITAMIN』をリリースしました。

この作品は、グループの音楽史で重要な位置を占めています。

CDJournalの20年史では、石野卓球が1993年夏にロンドンを訪れ、当時のアシッド・ハウスのリバイバルに刺激を受けたことが紹介されています。

『VITAMIN』では、ローランドのTB-303によるベースサウンドを前面に出したテクノの楽曲制作が進められました。

それ以前の電気グルーヴには、ラップやコミカルな歌詞、ユーモアを強く打ち出した楽曲が多くありました。

『VITAMIN』では、そうした表現を残しながらも、歌に頼らないトラックそのものの比重が大きくなっています。

収録曲の「新幹線」は約10分に及ぶ楽曲で、「N.O.」もこの作品に収録されました。

電気グルーヴが単に面白い歌を歌うグループではなく、電子音楽の制作そのものを中心に据えた活動へ踏み込んだ時期として、『VITAMIN』は位置づけられています。

1990年代前半のこうした制作活動は、次のアルバム『DRAGON』と海外での活動へつながっていきます。

「虹」から始まった海外への展開

1994年12月、電気グルーヴはアルバム『DRAGON』を発表しました。

この作品に収録された「虹」は、のちに海外でもリリースされ、電気グルーヴの活動を日本国外へ広げる一つのきっかけとなりました。

「虹」はドイツのレーベルMFSからも発表され、石野卓球と電気グルーヴがヨーロッパのダンスミュージックシーンで活動する足がかりとなっています。

石野は2021年の『Roots of 電気グルーヴ』で、MFSを運営していたマーク・リーダーとの関係にも触れています。

マーク・リーダーはイギリス・マンチェスター出身で、New Orderとも関わりの深い音楽関係者でした。

高校時代にNew Orderのレコードを聴いていた石野が、その後、同じ音楽シーンと関係のある人物を通じて海外で作品を発表するようになったことは、音楽史として興味深い出来事です。

電気グルーヴの公式プロフィールでも、1995年ごろからヨーロッパツアーやダンスフェスティバルへの出演など、海外での活動を本格化させたことが記されています。

日本のメジャーレーベルで作品を発表する一方、ヨーロッパのクラブやフェスティバルでも音楽を届ける活動が広がっていきました。

「Shangri-La」のヒットから2人体制の制作へ

1997年、電気グルーヴは「Shangri-La」を発表しました。

この曲は50万枚を超えるセールスを記録し、音楽番組などを通じてグループの名前が広く知られるきっかけとなります。

一方、その制作過程には、石野卓球とピエール瀧が後年まで覚えている出来事がありました。

「Shangri-La」の歌詞を考え続けた朝の公園

「Shangri-La」の制作秘話について、石野卓球とピエール瀧は2026年9月24日放送のJ-WAVE『GRAND MARQUEE』で詳しく語っています。

レコーディングが行われていたのは、東京・信濃町にあったソニーのスタジオでした。

しかし、歌詞がなかなか完成せず、二人は徹夜で考え続けていたそうです。

明け方になり、気分を変えるためにスタジオの近所にある公園へ出かけました。

二人は公園のブランコに座り、その間も歌詞について考えていました。

瀧の記憶では、時刻は朝8時半ごろ。

そこで瀧が石野に伝えたのは、歌詞を考えているのに「トロフィー」という単語しか思い浮かばない、ということでした。

瀧自身も、その単語が曲に合っていないことは分かっていたそうです。

石野は当時の出来事を笑いながら振り返り、後に「Shangri-La」で賞を受けてトロフィーを手にしたことにも触れています。

この話から分かるのは、完成した楽曲の歌詞には、スタジオで夜通し考えた二人の共同作業が関わっていたということです。

「Shangri-La」が広く知られるようになると、電気グルーヴはそれまで以上に多くのテレビ番組へ出演するようになりました。

瀧は複数のテレビ局を移動しながら番組に出演した時期を振り返り、ヒットによって活動の規模が変わったことを語っています。

ただし、石野は「Shangri-La」を制作した際、特にテクノというジャンルを意識していたわけではなかったとも説明しています。

ヒット後にテレビ番組で「テクノの電気グルーヴ」と紹介されることには、本人として違和感もあったそうです。

「Shangri-La」は幅広いリスナーに届いた代表曲ですが、その制作意図を単純にテクノや歌謡曲というジャンルへ分類することはできません。

砂原良徳の脱退と石野卓球・ピエール瀧の2人体制

「Shangri-La」のヒット後、電気グルーヴは大きな編成変更を迎えます。

1999年、1991年から在籍していた砂原良徳が脱退し、石野卓球とピエール瀧の2人体制となりました。

砂原の正式な脱退年は、ソニーミュージックの公式プロフィールで1999年とされています。

砂原は在籍中からソロ作品を制作しており、脱退後も音楽家として活動を続けています。

2013年には電気グルーヴのアルバム『人間と動物』のジャケット制作にも関わりました。

グループから離れたことと、音楽上の関係が完全になくなったことは別の出来事です。

一方、石野と瀧は、砂原の脱退後に自分たちが好むサウンドを組み合わせて楽曲を作り始めました。

2026年のJ-WAVEで瀧は、この時期の制作について、二人が好きなベースラインやシンセサイザーの音を足して曲を作ろうとしたと振り返っています。

それによって生まれたのが、1999年のシングル「FLASHBACK DISCO」でした。

「FLASHBACK DISCO」と『VOXXX』の制作

1999年に発表された「FLASHBACK DISCO」は、歌よりも電子音の反復とリズムが前面に出たダンスミュージックです。

この曲についてピエール瀧は、二人になってから自分たちの好きな音を組み合わせて制作したことを語っています。

石野卓球は当時、自分が所有していたスタジオで長い時間をかけて作業を続けていたそうです。

さらにベルリンのスタジオでも制作が進められ、2000年2月にはアルバム『VOXXX』が発表されました。

石野は『VOXXX』の制作に約1年かかったという記憶を語っています。

「Shangri-La」で大きなヒットを記録した後、歌が中心ではない「FLASHBACK DISCO」を次のシングルに選んだことに対しては、当時の事務所から反対もあったそうです。

しかし、二人はこの曲に手応えを感じていました。

3人体制から2人体制への変化は、単なるメンバー数の減少ではなく、石野卓球とピエール瀧が自分たちの好む音を改めて組み合わせる制作へ進むきっかけにもなりました。

この時期のライブやアルバム制作には、DJ TASAKAなど外部の音楽家も参加しています。

DJ TASAKAは1999年夏から電気グルーヴのライブへターンテーブリストとして参加し、『VOXXX』では石野と共に3曲を手がけました。

二人の正式メンバーを中心にしながら、作品やライブに必要な音楽家と協力する制作体制が続いていきます。

活動休止と再開、2人で続けた音楽制作

2人体制となった電気グルーヴは、2000年に『VOXXX』を発表した後、2001年に活動を休止しました。

その後、2004年に活動を再開し、石野卓球とピエール瀧による作品制作を続けています。

2001年の活動休止と2004年の再開

電気グルーヴは2001年、石野卓球が主宰する屋内ダンスミュージックフェスティバル「WIRE01」への出演を最後に活動を休止しました。

休止期間中には、石野と瀧がそれぞれの活動を進めています。

そして2004年、電気グルーヴとしての活動を再開しました。

2001年の休止と2004年の再開は、公式プロフィールにも記載されているグループ史の重要な区切りです。

再開後はアルバム制作やライブを重ね、2008年には『J-POP』と『YELLOW』、2013年には『人間と動物』を発表しました。

2015年には大根仁監督によるドキュメンタリー映画『DENKI GROOVE THE MOVIE? ~石野卓球とピエール瀧~』が公開されています。

この映画には、1989年8月20日の初ライブ映像や、元メンバーの証言など、電気グルーヴの音楽史を振り返る記録が収められました。

かつて一緒に活動したCMJKや砂原良徳を含め、長年の活動に関わった人物の証言が残されたことも、グループの歴史を理解するうえで意味があります。

『TROPICAL LOVE』を生んだ山のロッジでの共同制作

2017年3月、電気グルーヴはアルバム『TROPICAL LOVE』を発表しました。

この作品の制作方法について、石野卓球とピエール瀧は2017年2月のReal Soundのインタビューで詳しく説明しています。

制作が始まったのは2016年10月。二人は約3日間の合宿を行い、人里離れた山のロッジへ向かいました。

持ち込んだのはパソコン、ノート、小さなスピーカーなどでした。

石野によると、スタジオへ行くよりも、街から離れた場所に集まった方が余計な遊びに気を取られずに済むと考えたそうです。

この合宿では、Macの音楽制作ソフトGarageBandが中心的に使用されました。

石野は、歌の本録音など一部を除き、アルバムの大半をGarageBandで制作したと語っています。

さらに興味深いのが、仮歌の録音方法です。

最初はMacBookの内蔵マイクで仮歌を録っていましたが、後からスタジオの本格的なマイクを使って録り直したところ、必ずしも求める音にならなかったといいます。

そのため、再びMacBookで録音した音を使用したケースもありました。

また、外部の鍵盤をパソコンにつなぐケーブルがなかったため、鍵盤を弾く音をMacBookのマイクでそのまま録音したこともあったそうです。

そこには鍵盤を叩く物理的な音や周囲の空気感まで入り込み、石野は、そのような音が作品に独特の質感を加えることを面白がっていました。

本格的な機材を増やして音を整えるだけではなく、身近な道具を使った録音から偶然生まれる音も取り入れていたことが分かります。

合宿中、二人は約60時間を共に過ごしました。

瀧によると、テーブルの上にパソコンを置き、二人で音を聴きながら思いついたことを試していくうちに、寄り道のような作業から新しい曲の一部分が生まれることもあったそうです。

石野はパソコンを操作して音を作り、瀧はその場で音を聴いて反応する。そうしたやり取りを繰り返して、制作を進めていました。

石野は、長年一緒に活動してきた二人が60時間も話すことについて、次のように語っています。

無いから作るんです。

出典:Real Sound「電気グルーヴが語る、楽曲制作の流儀」/石野卓球

石野は同じインタビューで、以前はレコーディングの作業量が二人で異なることを不公平に感じた時期もあったと明かしています。

しかし、長年の活動を通じて互いの役割を理解し、その分担で制作を進める方がうまくいくと考えるようになったそうです。

石野が実際に音を組み立て、瀧が隣で聴きながら反応するという関係は、単に一人が作曲してもう一人が歌うという役割分担とは少し違います。

高校時代、石野の家でレコードを聴いていた瀧は、年月を経て、石野と同じテーブルで新しい音楽を作るようになりました。

2016年の山のロッジでも、二人はパソコンから鳴る音を一緒に聴き、気になった音を試しながら『TROPICAL LOVE』の楽曲を形にしていったのです。

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