アコースティックギターを抱え、全身で言葉を届ける竹原ピストル。
「よー、そこの若いの」で広く知られるようになりましたが、その音楽は突然始まったものではありません。
家には父親のギターやウクレレがあり、小学生のころには人前で歌う楽しさを知り、やがて自分でもギターを弾くようになりました。
高校ではプロの歌手を夢見て自作曲のデモテープを送り、大学では一転してボクシングに打ち込みます。
そこから濱埜宏哉との野狐禅、2009年の解散、年間250本を超えるソロライブ、メジャーへの再挑戦を経て、「よー、そこの若いの」や紅白歌合戦、日本武道館へと歩いていきました。
今回は、竹原ピストルがどんな音楽を聴いて育ち、どうやって歌を作り始め、野狐禅とソロ活動を経て現在知られるスタイルへたどり着いたのかを、本人の言葉と出来事からたどります。
| 音楽史の段階 | 竹原ピストルの歩み |
|---|---|
| 音楽の原点 | 父親がハワイアンバンドを組み、楽器が身近にある家庭で育つ |
| 最初の楽器 | 小学生のころからアコースティックギターに触れ、小学6年ごろから本格的に弾き始める |
| 自作曲 | 中学〜高校期に曲や歌詞を書き始め、高校ではレコード会社へデモを送る |
| 本格的な音楽活動 | 1999年、濱埜宏哉と野狐禅を結成 |
| ソロ転向 | 2009年の野狐禅解散後、一人で全国のライブハウスを回る |
| 認知の拡大 | 『さや侍』、メジャー再挑戦、「よー、そこの若いの」、紅白歌合戦、日本武道館へ |
竹原ピストルの音楽は楽器が身近にある家庭から始まった
竹原ピストルの音楽を幼少期まで遡ると、最初から家の中にさまざまな音がありました。
父親がハワイアンバンドを組んでおり、ギターやウクレレなどの楽器が身近にあったことが、最初の音楽環境でした。
父のハワイアンバンドと姉のレコードがあった子ども時代
父親は職場の仲間とハワイアンバンドを組み、家にはギターやウクレレ、ピアノ、エレクトーンなどが置かれていました。
姉も音楽が好きで、YMOやRCサクセションなど、その時代に聴かれていたレコードを弟に聴かせていたと竹原自身が振り返っています。
本人もエレクトーン教室に通っており、音楽は「将来やる特別なもの」というより、まず生活の中にあるものでした。
後年のギター一本の姿だけを見ると、弾き語りから音楽人生が始まったようにも見えますが、それより前から鍵盤やレコードを含む複数の音に触れていたことになります。
小学生で人前で歌う楽しさを知り、小6からギターへ
もう一つ大きかったのが、小学生の林間学校で人前に立った経験です。
出し物としてアニメ『アタックNo.1』の主題歌を歌ったところ反応がよく、人前で歌うことの楽しさを覚えたと本人は話しています。
楽器ではアコースティックギターに触れ、小学6年ごろからTHE BLUE HEARTSや長渕剛の曲をコピーするようになりました。
SAISON NEWSのインタビューでは、小学生のころにアコースティックギターで「かえるの合唱」をなぞった記憶も語っています。
歌うことの楽しさと、自分で音を鳴らす楽しさが、ほぼ同じ時期に育っていきました。
THE BLUE HEARTSや長渕剛をコピーし、自分の歌を書き始める
小学6年ごろには、THE BLUE HEARTSの「TRAIN-TRAIN」の歌詞に強く心を動かされたと歌ネットのインタビューで明かしています。
ギターではTHE BLUE HEARTSや長渕剛をコピーし、尾崎豊やBOØWYなどにも惹かれていました。
共通していたのは、本人の表現を借りれば「言葉が強い」音楽だったことです。
高校1年ごろには自分でも歌詞を書くようになり、コピーする側から、自分の言葉を歌にする側へ少しずつ移っていきました。
後年も言葉へのこだわりは強く、曲の核になるフレーズから場面や主人公を考えて歌詞を組み立てることがあると話しています。
高校時代にはプロを夢見てデモテープを送っていた
高校生になると、「音楽が好き」という段階から、プロのミュージシャンになりたいという目標へ進みました。
オリジナル曲を作り、レコード会社へデモテープを送っていたものの、この時点ではデビューには結びつきませんでした。
「竹原ピストル」という名前も、このころに生まれています。
高校時代の親友に「歌で世に出るから、そのときの芸名を考えてほしい」と頼み、提案された名前が竹原ピストルでした。
つまり「竹原ピストル」という名前は、デビュー後につけられた芸名ではなく、まだプロになっていない高校時代の約束から残った名前です。
ボクシングに打ち込んだ大学時代から野狐禅結成へ
高校では音楽と並行してボクシング部にも所属し、大学進学後はボクシングへ本格的に打ち込みました。
音楽を諦めたわけではありませんが、この時期の生活で大きな比重を占めていたのはボクシングでした。
道都大学でボクシング部主将、全日本選手権にも出場
北海道の道都大学でボクシング部に入り、1995年には主将を務めています。
オフィスオーガスタの公式プロフィールには、大学時代に全日本選手権へ2度出場した経歴も記されています。
一方で、音楽そのものが消えていたわけではありません。
ギターを弾き、歌を作り、プロのミュージシャンになりたいという気持ちは残っていました。
引退後の空白を動かした濱埜宏哉からの一本の電話
転機は、大学のボクシング部を引退したあとに訪れます。
競技へ打ち込んできた時間が終わり、次に何をすればいいのか分からないまま過ごす時期がありました。
「この期間が一番しんどかった。」
出典:FRIDAYデジタル「竹原ピストル・特別インタビュー『ずっと楽しかった。だから、“下積み”の感覚がない』」
本人の記憶では、部活引退から野狐禅を結成するまでおよそ10カ月。
プロのミュージシャンになりたいという昔の夢は思い出したものの、具体的にどう動けばいいのか分からず、時間だけが過ぎていたといいます。
そこへ電話をかけてきたのが、大学時代に知り合っていた濱埜宏哉でした。
ボクシングを終えて立ち止まっていた竹原を再び音楽へ動かしたのが、濱埜宏哉からの一本の電話でした。
1999年、1年間だけのつもりで野狐禅を始めた
2人は1999年に野狐禅を結成します。
スピードスターレコーズの公式プロフィールでは、竹原がボーカルとアコースティックギター、濱埜がキーボードとコーラスを担当した2人組とされています。
ただし、最初から何年も続けるつもりだったわけではありません。
「1年間だけ一生懸命やって、それでデビューできなかったら辞めようと決めていた。」
出典:FRIDAYデジタル「竹原ピストル『期間限定ユニットの予定だった』驚きの『野狐禅』秘話」
その1年間は年間100本ほどのライブを行い、オーディションやコンテストにも参加する密度の濃い時期になりました。
「デビューできなければ終える」と期限を区切って走り始めた活動が、結果として約10年続く野狐禅へ育っていきます。
旭川の小さなフォーク小屋からデモが音楽業界へ届く
野狐禅がプロへ進む過程では、大きなオーディションだけでなく、小さなライブハウスで生まれた縁が動きました。
北海道で活動していたころ、旭川の「旭川フォークジャンボリー」でレギュラーライブを行っていました。
竹原の回想では、店のマスターが野狐禅のデモテープを音楽業界の人物へ渡し、それがオフィスオーガスタ側まで届きます。
関係者が北海道までライブを見に来たことから話が進み、2人はプロを目指して上京することになりました。
野狐禅で2003年にメジャーデビュー
1999年に結成した野狐禅は、北海道でのライブ活動を経て東京へ活動拠点を移していきました。
竹原ピストル個人の弾き語りとは違い、濱埜宏哉のキーボードがもう一つの柱となる2人組です。
2001年に上京し、2003年にスピードスターレコーズからデビュー
スピードスターレコーズの野狐禅公式プロフィールによると、2人は2001年に上京しています。
2002年にはアツガレコードからミニアルバム『便器に頭を突っ込んで』を発表。
そして2003年、スピードスターレコーズから作品を発表し、メジャーでの活動が始まりました。
その後、野狐禅として6枚のシングルと4枚のアルバムを残しています。
高校時代からデモを送り続け、大学ではボクシングに打ち込み、一度立ち止まった竹原にとって、ここで初めて「プロのミュージシャンになる」という高校時代からの目標が形になりました。
北海道で出会った遠藤ミチロウから知った「歌うたい」という生き方
北海道でライブをしていた時代には、後のソロ活動のあり方にも関わる出会いがありました。
野狐禅は北海道へ来る歌手の前座を務める機会があり、その中で出会った一人が遠藤ミチロウです。
竹原は後年のReal Soundのインタビューで、遠藤との出会いなどを通して、全国を巡りながら歌って暮らす「歌うたい」という生き方そのものを知ったと振り返っています。
のちに野狐禅を解散し、一人で全国の小さなライブハウスを回るようになった竹原を考えるうえで、この時期に知った活動スタイルは見逃せません。
山崎まさよしの一言で変わったギターの弾き方
オフィスオーガスタへ所属したことで、山崎まさよしとの交流も生まれました。
野狐禅のレコーディングで山崎のギターを借りた際、竹原は低い位置に構えたギターを力いっぱい弾き、ネック付近へ傷をつけてしまったことがありました。
謝りに行った竹原に対し、山崎が指摘したのは傷そのものではなく、ギターの音をきちんと鳴らすためのストローク位置でした。
その後、竹原はギターの位置を上げ、フォームも修正したとCINRAのインタビューで話しています。
好きな音楽から受けた影響とは別に、実際の演奏方法を直接変えた具体的な助言でした。
2009年の野狐禅解散から竹原ピストルとしてゼロへ戻った
野狐禅は2009年4月に解散しました。
約10年続いた2人組を終えたあと、竹原は一人での表現活動へ進みます。
すでにメジャーデビューを経験していましたが、ソロではその実績に乗るのではなく、自分でライブの場所を探すところからやり直しました。
解散後は野狐禅時代のライブハウスをあえて外した
音楽ナタリーのインタビューで竹原は、野狐禅解散後に一人で「ゼロから始める」と考えていた時期を振り返っています。
野狐禅時代から応援していた観客は残っていましたが、新しい曲を作り、ソロの竹原ピストルとしてライブを重ねました。
過去の実績を消すことはできません。
それでも「野狐禅の元メンバー」として続けるのではなく、一人の歌うたいとしてもう一度自分の場所を作り直すことを選んだ時期でした。
年間250〜300本のライブで全国を回る「歌うたい」へ
ソロ転向後の竹原を象徴する数字が、ライブの本数です。
オフィスオーガスタやスピードスターレコーズのプロフィール、本人インタビューでは、毎年約250本、資料によっては250〜300本というペースでライブを行っていたことが確認できます。
週に5〜6日近い計算で、ライブハウスや小さな会場を回る生活でした。
これは「下積み時代」という一言だけでは説明しにくい期間でもあります。
本人は2025年のFRIDAYインタビューで、バイトと音楽を並行していた時期も含めて楽しかったため、下積みという感覚はなかったと話しています。
ライブは売れるための手段であると同時に、竹原にとって歌そのものを仕事にする場所でもありました。
松本人志との縁から『さや侍』主題歌へ
ソロ活動を続ける中、2011年に大きな出来事が起こります。
松本人志監督の映画『さや侍』へ出演し、エンディング曲「父から娘へ ~さや侍の手紙~」を歌うことになりました。
松本人志と竹原の接点はソロ転向後に突然生まれたものではなく、野狐禅時代まで遡ります。
野狐禅は『HEY!HEY!HEY! MUSIC CHAMP』へ出演しており、松本がその音楽を評価していたことを竹原も後になって知りました。
『さや侍』の話が届いたときには、自分たちが続けてきたことを見てくれていた人がいたという感覚があったと、後年のインタビューで語っています。
「父から娘へ ~さや侍の手紙~」は竹原が歌と作曲を担い、映画の終盤を支える一曲となりました。
野狐禅解散から2年後、全国を一人で回っていた時期に得た、ソロ活動初期の重要な接点です。
メジャー再挑戦から「よー、そこの若いの」へ
ソロで全国を回る生活は、そのままインディーズだけで完結したわけではありません。
2014年、竹原は野狐禅のデビュー時にも所属していたオフィスオーガスタへ再び所属します。
そこから再びスピードスターレコーズで作品を発表し、活動の規模が変わっていきました。
2014年にオフィスオーガスタへ戻り『BEST BOUT』を発表
2014年にはATSUGUA RECORDSから「俺のアディダス~人としての志~」を発表。
同年10月、ビクター/スピードスターレコーズからアルバム『BEST BOUT』をリリースしました。
「ここからが本当のスタート」
出典:音楽ナタリー「竹原ピストル『BEST BOUT』インタビュー」
野狐禅ではすでにメジャーデビューを経験しているため、音楽人生そのものの「最初」ではありません。
ただ、2009年に一人へ戻り、ライブを積み直した竹原ピストルが、ソロアーティストとしてメジャーで再び勝負する節目になりました。
「俺のアディダス」から「よー、そこの若いの」へ
2014年の「俺のアディダス~人としての志~」に続き、2015年には「よー、そこの若いの」が住友生命「1UP」のCMソングに起用されました。
同曲はアルバム『youth』へ収録され、竹原ピストルの名前と歌声がそれまで以上に幅広い層へ届く作品になります。
ただし、この曲だけを「突然売れた唯一のきっかけ」と見ると、それ以前の流れが抜け落ちます。
野狐禅解散後の全国ライブ、『さや侍』、2014年のメジャー再挑戦を積み重ねた先に「よー、そこの若いの」がありました。
音楽ナタリーの『youth』インタビューでも、竹原は若いミュージシャンへの助言について語りながら、自分自身は人の助言をほとんど聞かなかった時期があったと振り返っています。
他人から決められた正解ではなく、自分で選んで進むという感覚は、「よー、そこの若いの」にも重なる竹原らしい考え方の一つです。
紅白初出場と日本武道館まで、認知は段階的に広がった
2017年にはアルバム『PEACE OUT』がオリコン週間5位を記録。
同年末には第68回NHK紅白歌合戦へ初出場し、「よー、そこの若いの」をギター一本で披露しました。
翌2018年12月22日には、日本武道館でワンマンライブを開催しています。
小さなライブハウスを年間250本ほど回っていたソロ転向直後から数えると、約10年をかけてたどり着いた舞台でした。
本人公式YouTubeチャンネルでは、その日本武道館公演で歌った「よー、そこの若いの」の映像が公開されています。
幼いころから続いていたギターと歌が、野狐禅、解散後のソロライブ、メジャーへの再挑戦を経ても、舞台の中心に残っていることが分かる映像です。
竹原ピストルの音楽ルーツをたどると一本につながる
竹原ピストルの音楽の始まりは、父親のハワイアンバンドや姉のレコードがある家庭でした。
小学生で人前で歌う楽しさを知り、小学6年ごろからギターを弾き、高校では自分の歌を書いてデモテープまで送りました。
大学ではボクシングに打ち込みますが、引退後の空白期に濱埜宏哉から電話が入り、1999年に野狐禅を結成。
2003年にメジャーデビューしたあと、2009年には自ら解散を選び、一人で全国のライブハウスを回る生活へ戻っています。
そこで年間250本以上のライブを重ね、『さや侍』との出会いを経て、2014年には再びメジャーの舞台へ進みました。
「よー、そこの若いの」、紅白歌合戦、日本武道館は、その後に続いた出来事です。
家庭にあった楽器から始まり、人前で歌う楽しさを知り、何度環境が変わってもライブで歌う場所へ戻ってきたことが、竹原ピストルの音楽史を通して変わらない部分です。
高校時代に親友からもらった「竹原ピストル」という名前も、やがて野狐禅を経て、一人でギターを抱える歌うたいの名前として残りました。

