佐野遊穂さんと佐藤良成さんによるハンバート ハンバートは、夫婦でもある2人がともにメインボーカルを務めるデュオです。
2人の歌が会話するように重なる「おなじ話」や、フォーク、カントリーを背景にした素朴なサウンドから、最初からこの形で始まったようにも見えます。
ところが、その始まりをたどると少し意外です。音楽家になることを早くから決めていた佐藤さんに対し、佐野さんは大学生になるまで自分で音楽をする発想がほとんどありませんでした。しかも、1998年に始まったハンバート ハンバートは2人組ではなく、複数人のバンドでした。
大学時代に知り合った2人が、ひとつのバンドに集まり、ほかのメンバーが抜けた末に残ったのが佐藤良成さんと佐野遊穂さんでした。
別々だった音楽の入口がどこで交わり、どのようにデビューし、「おなじ話」という大きな転機へつながったのか。ハンバート ハンバートの音楽の始まりから順にたどります。
ハンバート ハンバートは佐藤良成・佐野遊穂の夫婦デュオ
ハンバート ハンバートを形づくるのは、佐野遊穂さんと佐藤良成さんの2人です。
公式プロフィールでは1998年結成。2人ともメインボーカルを担当し、フォークやカントリーなどをルーツに持つ楽曲を発表してきました。
| メンバー | 生年・出身 | 主な担当 |
|---|---|---|
| 佐野遊穂 | 1976年・東京都出身 | ボーカル、ハーモニカほか |
| 佐藤良成 | 1978年・神奈川県出身 | ボーカル、ギター、フィドル(バイオリン)ほか |
佐藤良成と佐野遊穂、それぞれの担当とプロフィール
楽曲制作では佐藤さんが作詞・作曲を担う作品が多く、ギターだけでなくフィドルやピアノなど複数の楽器を演奏します。一方、佐野さんはボーカルを中心にハーモニカなども担当してきました。
特徴的なのは、「男性が演奏、女性が歌」という役割分担のユニットではないことです。公式プロフィールにもある通り、佐野さんも佐藤さんもメインボーカル。この2人の声が並ぶ形は、後に大きな転機となる「おなじ話」にもつながっていきます。
また、2人は音楽活動のパートナーであると同時に夫婦でもあります。ただし、ハンバート ハンバートの成り立ちを理解するときに大切なのは、夫婦だから2人で音楽ユニットを始めたわけではないという点です。
最初から夫婦デュオとして始まったわけではない
結成当初のハンバート ハンバートには、ドラム、ベース、サックス、キーボードなどを含む複数のメンバーがいました。
初期人数については、後年の本人インタビューでも時期によって5人、6人という表現があります。そのため重要なのは人数をひとつに固定することではなく、現在のような2人組としてスタートしたバンドではなかったという事実です。
そもそも佐藤さんが思い描いていたのは、ホーン隊や女性コーラスもいる大所帯のバンドでした。現在のアコースティックな2人組という姿からさかのぼると、出発点のイメージはかなり違っています。
2人の音楽の始まりはまったく違っていた
ハンバート ハンバートの成り立ちを面白くしているのが、佐藤さんと佐野さんの音楽への入り方の違いです。
一方は子どもの頃から「歌うための楽器」を求め、もう一方は自分が音楽をするとは考えていなかった。その2人が大学時代に出会います。
佐藤良成は子どもの頃から歌い、16歳頃には曲を作っていた
佐藤さんは、物心がつく前から歌うことが好きだったと振り返っています。
家庭が特別に音楽一家だったわけではありませんが、家にはクラシックやカントリー、フォークのレコードがあり、その中では赤い鳥などもよく聴いていました。
幼い頃にいとこのエレキギターを見て憧れ、自分が気持ちよく歌うための伴奏楽器が欲しいと考えるようになります。小学校へ入る頃にはバイオリンを習い始め、9歳頃からはピアノも習いました。
ただ、本人が本当に欲しかったのはギターでした。中学生になると自分で音楽を聴くようになり、ロックや古いアメリカ音楽へ関心が広がっていきます。
中学から高校にかけてはフォークギターを手にし、高校では友人とバンドを組んで演奏。ジョン・デンバーやPeter, Paul and Maryなどの曲も演奏していました。16歳頃には自分で曲を作り始めていたといいます。
SPICEのインタビューでは、ミュージシャンになりたいと思い始めた時期について「12歳くらいから」と語っています。早い段階から、音楽を聴くだけでなく自分が演奏し、歌う側へ進む意識を持っていたことが分かります。
佐野遊穂は「自分で音楽をやる」という発想がなかった
佐野さんのスタート地点はかなり違います。
両親は音楽好きで、子どもの頃に買ってもらったCDのひとつが『天空の城ラピュタ』のサウンドトラック。歌詞カードが傷むほど繰り返し聴き、英語の部分をカタカナで書き直して一緒に歌っていたそうです。
音楽そのものから遠い家庭だったわけではありません。それでも、楽器を始めたい、歌手になりたいと考えていたわけではありませんでした。
自分で音楽をやるという発想が無かったですね。
出典:SPICE「ハンバートハンバート 2人きりでライブ定番曲やカバー曲を録音したアルバム『FOLK2』を語る」
大学時代に佐藤さんから誘われたことは、佐野さんにとって「すでに進んでいた音楽活動へ参加した」というより、自分で音楽をする人生そのものが始まる入口に近い出来事でした。
大学時代の出会いからハンバート ハンバート結成へ
別々の道を歩いていた2人が接点を持ったのは大学時代でした。
佐藤さんは早稲田大学へ進み、モダンジャズのサークルに所属します。しかし本人によれば、当時のモダンジャズは難しく、部室で話していることも多かったそうです。
高校時代にはフォークを演奏していた反動もあり、大学ではフレンチポップスのような華やかでおしゃれなバンドをやりたいと考えるようになりました。
和光大学の学園祭で佐藤良成と佐野遊穂が出会う
佐藤さんと佐野さんが知り合った場所として、本人が振り返っているのが和光大学の学園祭です。
早稲田大学では佐藤さんの在学時期に学園祭が行われなかったため、和光大学の学園祭へ遊びに行き、そこで佐野さんと知り合いました。
ただし、その場で佐野さんの歌を聴いて即座にスカウトした、という単純な話ではありません。2人はまず知り合いになり、その後、佐藤さんが新しいバンドのメンバーを探す過程で再び線がつながります。
「カラオケがうまい」と聞いた佐藤が佐野をバンドへ誘った
佐藤さんは、大人数で華やかなバンドを作ろうとしていました。ところが思うようにメンバーがそろわず、歌える女性も探していました。
そんなとき、ベースを担当していた知人から聞いたのが、佐野さんについての話です。カラオケへ行ったところ、とても歌がうまかったというものでした。
音楽活動の経験者として名前が挙がったのではなく、「カラオケで歌がうまかった人」として佐野さんが候補になったところが、この出会いの特徴です。
音楽ナタリーで細野晴臣さんと対談した際、佐野さんは当時について、音楽活動は何もしていなかったものの、誘われると面白そうだと思って参加したと振り返っています。
ミュージシャンを目指してバンドを作ろうとしていた佐藤さんと、そこへ誘われて初めて音楽をする側へ入った佐野さん。この組み合わせが1998年のハンバート ハンバートへつながりました。
名前は小説『ロリータ』のハンバート・ハンバートに由来
「ハンバート ハンバート」という名前は、ウラジーミル・ナボコフの小説『ロリータ』に登場するハンバート・ハンバートから取られています。
佐藤さんは大学時代に『ロリータ』を読んでおり、後年のOTOTOYのインタビューでは、当時思いついた中で一番おしゃれな名前だと思ったと説明しています。
現在の音楽性を言葉で表すために考え抜いた名前というより、大学生だった佐藤さんの感覚から生まれたバンド名でした。
複数人バンドから2人組になり、CDデビューへ
1998年に始まったハンバート ハンバートは、結成した瞬間に現在のスタイルを完成させたわけではありません。
むしろ、当初思い描いていた形が少しずつ崩れていった結果として、佐藤さんと佐野さんの2人が残ります。
メンバーが次々と抜け、佐藤良成と佐野遊穂が残った
初期メンバーは、就職活動などそれぞれの事情で少しずつ離れていきました。
一時期は新しいメンバーを加えることも考えたものの、固定した編成にはならず、気が付けば佐藤さんと佐野さんの2人が中心になっていました。
佐野さんは大学卒業後にいったん就職しますが、半年ほどで退職。佐藤さんは音楽ナタリーの「アーティストの音楽履歴書」で、当時の自分について次のように振り返っています。
絶対ミュージシャンになるんだ
出典:音楽ナタリー「佐藤良成(ハンバート ハンバート)のルーツをたどる」
佐藤さんには最初から音楽を職業にする強い意思がありました。一方の佐野さんは、そうした佐藤さんとは異なる温度でバンドに入りながら、そのまま活動を続けていきます。
最初から同じ夢を持った2人ではなく、違う動機で始めた2人が最後まで残った。この経緯が、ハンバート ハンバートの2人体制の原点です。
公民館やカラオケボックスで録ったデモがデビュー盤になった
2人になったからといって、すぐに整った制作環境を手に入れたわけでもありません。
デビュー前には、知人が所有していたデジタルMTRを使ってデモ音源を制作していました。レコーディングスタジオを借りる資金がなかったため、録音場所はリハーサルスタジオだけではありません。
公民館の音楽練習室やカラオケボックス、ティアラこうとうの音楽室など、録音できる場所を使って少しずつ音を残していきました。
そのデビュー前のデモ音源が、そのまま2001年の1stアルバム『for hundreds of children』として世に出ることになります。
完成されたプロのスタジオ作品を作ってからデビューしたのではなく、アマチュア時代に手元の機材と使える場所で録った音が最初のアルバムになったのです。
2001年CDデビューと2003年メジャーデビューは別の出来事
ハンバート ハンバートの「デビュー」は、資料を見ると2001年と2003年の両方が登場します。
これはどちらかが間違っているのではなく、意味が違います。
- 2001年:『for hundreds of children』でCDデビュー
- 2003年:3rdアルバム『焚日』をミディから発売しメジャーデビュー
公式プロフィールが大きな節目として記しているのは2001年のCDデビューです。一方、Billboard JAPANなどでは2001年の作品をインディーズでの初アルバム、2003年の『焚日』をメジャーデビュー作として整理しています。
つまり、1998年の結成から約3年を経て作品を世に出し、さらに活動を続けた先でメジャーへ移ったという順序です。
「おなじ話」が東京から全国へ活動を広げる転機になった
CDデビューを果たしても、ハンバート ハンバートの活動がすぐ全国へ広がったわけではありません。
公式プロフィールが明確な転機として挙げているのが、2005年に発表した「おなじ話」です。
1人では歌いにくいメロディから2人の掛け合いが生まれた
「おなじ話」は、最初から男女2人が会話する曲として計画されていたわけではありません。
佐藤さんが作った曲は、一人で歌うには音域的に少し歌いにくいものでした。そこでメロディを分けて男女で歌うアイデアが生まれ、佐野さんの「会話」にするという発想も重なって、2人が交互に歌う形へ変わっていきます。
それまでのハンバート ハンバートにも2人の歌はありましたが、「おなじ話」では佐藤さんと佐野さんの両方が主役として歌うスタイルが曲そのものの構造になりました。
この曲が生まれてから運が向いてきたように思う。
出典:音楽ナタリー「ハンバート ハンバート『FOLK』インタビュー」
佐藤さん自身が後年「転機」として挙げていることからも、「おなじ話」は単なる代表曲のひとつではなく、活動の流れを変えた作品だったことが分かります。
FMパワープレイをきっかけに全国へライブ活動が広がった
「おなじ話」をライブで演奏するようになると、客席の反応にも変化が表れます。
さらにシングルとして発表されると、全国各地のFM局でパワープレイに選ばれました。SNSで曲が一気に拡散される時代になる前、ラジオを通して東京以外のリスナーにも曲が届いていきます。
2025年の音楽ナタリーのインタビューでも、佐藤さんは「おなじ話」以前はライブへ来る観客が少なかったものの、この曲を演奏し始めてから少しずつ客が増えたと振り返っています。
「おなじ話」は、2人の歌い方を象徴する曲になっただけでなく、東京を中心にしていた活動を全国へ広げた最初の大きな転機でした。
長く2人で続けた先に「ぼくのお日さま」「笑ったり転んだり」へつながった
全国へ活動が広がったあとも、ハンバート ハンバートはひとつのヒットだけを追うのではなく、作品制作とライブ、映像作品や舞台への楽曲提供を重ねていきました。
その歩みを象徴する出来事のひとつが、2014年に発表した「ぼくのお日さま」です。
発表から10年後の2024年には、この曲から着想を得た奥山大史監督の映画『ぼくのお日さま』が公開され、同曲が主題歌となりました。佐藤さんは映画の劇伴も担当しています。
さらに2025年には、NHK連続テレビ小説『ばけばけ』のために「笑ったり転んだり」を書き下ろし、同年の第76回NHK紅白歌合戦へ初出場しました。
大学時代に複数人のバンドとして始まり、メンバーが抜けて2人になり、公民館やカラオケボックスで録ったデモからCDデビューしたハンバート ハンバート。その活動が全国へ広がる最初の大きな節目となったのが「おなじ話」であり、その後も2人で歌う形を軸に長い音楽史を積み重ねてきました。
最初から完成された夫婦デュオがあったのではなく、違う場所から音楽へ入った2人が、バンドの変化を経て残り、2人で歌う方法を見つけていった。その始まりを知ると、ハンバート ハンバートというデュオの輪郭がよりはっきり見えてきます。

