BOOM BOOM SATELLITESの結成史|川島宅の曲作りからヨーロッパデビューまで

BOOM BOOM SATELLITESの結成史を、2人の人物ビジュアルと制作機材、ヨーロッパの街並みでたどる構成 バンド

BOOM BOOM SATELLITESは、1997年にヨーロッパで先に注目を集め、日本へ活動の場を広げていったロックバンドです。

中野雅之と川島道行の2人が作った音は、エレクトロニックとロックを行き来しながら、海外フェスからFUJI ROCK、SUMMER SONICまで大きなステージへ届いていきました。

けれど、その始まりは大きなスタジオでもライブハウスでもなく、大学の同級生だった2人がCDを持ち寄り、川島の部屋に集まって機材を触っていた時間でした。

BOOM BOOM SATELLITESは、音楽の趣味も得意分野も少し違う2人が、川島宅で一緒に曲を作り始めたところから形になっていきます。

今回は、中野と川島それぞれの音楽ルーツ、大学での出会い、最初のライブ、海外へ送ったデモ、ヨーロッパデビュー、そして2016年の活動終了後にBOOM BOOM SATELLITESの名前と音楽が受け継がれていくまでをたどります。

中野雅之と川島道行、それぞれの音楽の原点

後にひとつのバンドで音を作る2人ですが、少年時代の音楽との出会い方は同じではありませんでした。

中野は早い時期からシンセサイザーと録音へ向かい、川島はパンクやニューウェイヴを入り口に、自分でバンドをやるためギターを手にしています。

中野雅之はシンセポップと機材に夢中になった

中野雅之は、父親が家でかけるクラシックのレコードや、オープンリールに録音されたジャズ、イージーリスニング、映画音楽などを聴いて育ちました。

小学校高学年になるころには、自分でも音楽を作ってみたいと思うようになり、Orchestral Manoeuvres in the Dark、Howard Jones、YMO、Kraftwerkなどのシンセポップや電子音楽をよく聴いていたと振り返っています。

初めて買った楽器は、YAMAHAのFMシンセサイザー「DX-100」でした。

パソコンで録音する環境が一般的ではなかった時代に、カセットデッキへ音を重ね、高校生になるとアルバイト代を機材につぎ込んでいきます。

ギターを持ってロックバンドを始めるのではなく、10代のころからシンセサイザーと多重録音へ進んでいたことが、中野の出発点でした。

川島道行はパンクとニューウェイヴからギターを始めた

岩手県で育った川島道行が音楽に強く惹かれたのは、中学2年生のころです。

近所の友人が持っていたレコードを聴くため頻繁に家へ通い、Psychic TVやNew Order、David Bowieなどに触れていきました。

最初に手にしたのはベースで、バンドを組むつもりでしたが、自分がやりたいニューウェイヴ系の音楽を弾いてくれるギタリストが周囲にいませんでした。

そこでベースを売り、「それなら自分がギターを弾く」とギタリストへ転向します。

機材や録音から音を組み立てていた中野と、自分のやりたいバンドを鳴らすためギターを選んだ川島。

この2人が同じ大学へ入り、ほぼ同じ授業を受けることになります。

大学で出会い、川島宅からBOOM BOOM SATELLITESが始まった

BOOM BOOM SATELLITESは一般に1990年結成と紹介されていますが、中野は後年、川島宅で一緒に曲を作り始めたのは「たぶん1991年くらい」と振り返っています。

結成年の表記と、現在につながる2人の共同制作が日常になった時期は、分けて見ると当時の流れが分かりやすくなります。

学籍番号の近い同級生がCDを交換する仲になった

2人が出会ったのは、都内の同じ大学へ入学して間もないころでした。

学部も同じで学籍番号も近く、受ける授業もほぼ同じだったため、自然と顔を合わせる機会が増えていきます。

大きな共通点は、とにかく音楽をよく聴いていたことでした。

川島は大量のCDを買い、中野も年間数百枚を聴いていたため、川島宅へCDを持ち寄ったり、ポータブルCDプレイヤーを学食へ持ち込んで互いに知らない音源を聴かせ合ったりしていました。

レコード屋に行くような感じで川島くんの家に行ってましたね(笑)。

出典:CINRA「あの人の音楽が生まれる部屋 Vol.14 BOOM BOOM SATELLITES」

最初から「一緒にバンドをやろう」と集まったというより、まず音楽を交換する友人関係があり、その場所のひとつが川島の部屋でした。

中野が打ち込みを手伝い、2人で曲を作り始めた

大学へ入った川島は、ドラムマシン、カセットMTR、サンプラーなどを揃え、ヒップホップやループミュージックの制作を始めます。

一方、中野は10代のころから機材を使っていたため、川島へ「こういう音楽なら、この機材がいい」と助言する側でした。

機材の相談をしているうちに中野がプログラミングを手伝うようになり、やがて2人で曲を作るようになります。

「ボーカルとギターを担当する川島」と「機材とプログラミングに強い中野」が、互いの得意分野を持ち寄ったことがBOOM BOOM SATELLITESの結成の核心でした。

中野は2015年のインタビューで、BOOM BOOM SATELLITESという名前は自分が加わる前から川島が決めており、当時は川島以外にメンバーがいなかったとも話しています。

オリジナル曲1曲のまま届いた最初のライブ出演依頼

川島宅の機材で遊びながら曲を作っていたころ、2人のもとへイベント出演の話が届きます。

ところが、その時点で完成していたオリジナル曲はまだ1曲でした。

それでも出演することを決め、ライブに必要な数曲を急いで制作します。

中野はこの始まりを「突貫工事的」と表現していますが、そのライブで手応えを感じたことから活動は続いていきました。

後年、中野が当時販売していたデモを聴き返すと、すでにBOOM BOOM SATELLITESらしい音がしていたと振り返っています。

BOOM BOOM SATELLITESという名前は川島が先に決めていた

バンド名の由来は、川島が好きだったイギリスのバンドSigue Sigue Sputnikの楽曲名です。

川島は中野が参加する前から「BOOM BOOM SATELLITES」という名前だけを決めていました。

つまり、名前があり、川島が機材を揃え、そこへ中野がプログラミングを手伝う形で入り、ライブ出演をきっかけに曲数が増えていったのが初期の姿です。

デモを海外へ送り、1997年にヨーロッパデビュー

大学時代の部屋で始まった制作は、ライブとデモを通じて外へ向かっていきます。

大きな転換点は、日本のレコード会社だけを目指すのではなく、自分たちの音を海外レーベルへ直接送ったことでした。

ライブハウスとデモテープから活動を広げた

最初のライブ以降も2人は曲を作り続け、初期にはデモテープを自分たちで販売していました。

1995年には、TOREMA RECORDSのコンピレーション『ABSTRACT SET ONE』へ「DUB ME CRAZY」で参加した記録も残っています。

まだ「デビュー」という言葉で一本化できる段階ではなく、ライブ、デモ、コンピレーション参加を重ねながら、BOOM BOOM SATELLITESとしての音を外へ出していた時期でした。

海外レーベルへ送ったデモがR&S Recordsとの契約につながった

川島は後年、Ninja Tuneをはじめ、当時台頭していた海外のインディーレーベルへデモを送っていたと話しています。

その中で契約へ進んだのが、ベルギーのR&S Recordsでした。

川島自身、R&Sとの契約は意外だったと振り返っており、最初から海外で大きく成功する確信があったわけではありません。

日本で売れる形へ寄せるより先に、自分たちのデモを海外のレーベルへ送り、その音を評価したR&S Recordsと契約したことが、BOOM BOOM SATELLITESのキャリアを大きく動かしました。

ヨーロッパで先に評価され、日本へ逆輸入された

1997年6月、R&S Recordsから12インチ『4 A MOMENT OF SILENCE』がヨーロッパ向けにリリースされ、同年には6曲入りEP『JOYRIDE』も発表されました。

Sony Musicの公式情報では『JOYRIDE』を「ヨーロッパデビューEP」と位置付けており、BOOM BOOM SATELLITESのデビュー期は、R&Sとの契約から複数の作品を送り出した1997年に置かれています。

ヨーロッパの音楽メディアでも取り上げられ、その後は大型フェスへの出演や海外ツアーへ活動が広がりました。

1998年には『OUT LOUD』を発表し、日本のバンドでありながら、まず海外のクラブ/ロックシーンで名前が知られていく道を歩みます。

中野は当時、海外では自分たちが「エクスペリメンタルなことをやる日本人」と見られていた感覚があったと回想しています。

一方で川島は、さまざまな音楽を取り入れていても、根底にはパンクがあり、自分たちはロックバンドだという意識が強かったと語っていました。

時期BOOM BOOM SATELLITESの主な出来事
1990年中野雅之と川島道行によって結成とされる
1991年ごろ中野の回想では、川島宅で2人の曲作りが始まる
1995年コンピレーション『ABSTRACT SET ONE』へ参加
1997年R&S Recordsから欧州向け作品を発表し、ヨーロッパデビュー
2006年『ON』を発表し、「KICK IT OUT」が重要な転機に
2016年『LAY YOUR HANDS ON ME』を最後の作品として活動終了
2017年中野が「FRONT CHAPTER -THE FINAL SESSION-」を実施
2026年THE SPELLBOUND × BOOM BOOM SATELLITESとして名義が再び動き出す

「ロックバンドがやるテクノ」からKICK IT OUTへ

海外ではテクノやクラブミュージックの文脈でも受け止められたBOOM BOOM SATELLITESですが、2人が自分たちを捉える感覚は少し違っていました。

初期から電子音とギターを並列に使い、ライブを重ねるにつれて、ロックバンドとしての身体性も強くなっていきます。

パンクと電子音楽を混ぜた初期BOOM BOOM SATELLITES

結成当初に作りたかった音楽について、中野は2007年のインタビューで次のように表現しています。

やっぱりロックバンドがやるテクノとかじゃないかな。

出典:Billboard JAPAN「BOOM BOOM SATELLITES『EASY ACTION』インタビュー」

中野はプログラミングやブレイクビーツを扱い、川島はギターと歌を担うという役割から始まりました。

中野は初期に目指した感覚を説明する際、Jesus Jones、Big Audio Dynamite、Pop Will Eat Itselfなどの名前も挙げています。

テクノへロックを後付けしたというより、バンドとしてギターを鳴らす感覚と電子音の制作が最初から同居していたと考える方が、彼らの始まりには近いでしょう。

KICK IT OUTが『ON』とバンドの方向を押し広げた

2006年11月に発表されたアルバム『ON』で、その融合はさらに前へ出ます。

アルバム1曲目に収められた「KICK IT OUT」は制作の比較的早い段階で完成し、川島はこの曲を作ったことで、ポップでキャッチーな方向を押し進めるべきだと感じたと話しています。

「KICK IT OUT」は後から代表曲になっただけではなく、『ON』をどの方向へ進めるかを2人が掴むきっかけになった曲でもありました。

スタジオで作られた音がライブでどう鳴っていたのかは、公式チャンネルに残る2006年のSTUDIO COAST公演でも確認できます。

FUJI ROCKとSUMMER SONICへ広がったライブバンドとしての存在感

2000年代のBOOM BOOM SATELLITESは、作品だけでなくライブの規模でも大きな節目を迎えます。

2007年にはFUJI ROCK FESTIVALのWHITE STAGEでヘッドライナーを務め、2009年にはSUMMER SONICのマリンスタジアムへ出演しました。

打ち込みを軸に始まった2人の音楽は、巨大なステージで生の演奏と電子音がぶつかるライブへ広がっていきます。

「KICK IT OUT」が長く代表曲として演奏されてきたのも、この時期にBOOM BOOM SATELLITESがライブバンドとして築いた姿と切り離せません。

2016年の活動終了と、受け継がれたBOOM BOOM SATELLITES

BOOM BOOM SATELLITESの20年近い活動には、川島道行の病気と向き合いながら制作を続けた時期も含まれています。

ここでは病歴そのものではなく、最後の作品、実現できなかったライブ、そしてその後に音楽がどう扱われたのかを追います。

LAY YOUR HANDS ON MEが川島道行との最後の作品になった

2016年5月、BOOM BOOM SATELLITESは活動を終えることを発表しました。

同年6月22日に発売されたEP『LAY YOUR HANDS ON ME』は、Sony Musicが「ラストプロダクト」と位置付ける最後の作品です。

川島にとって最後のレコーディング作品でもあり、後年、中野は活動後期には病気の影響で声を出すこと自体が難しくなっていたと振り返っています。

それでもレコーディングは続けられ、4曲入りのEPとして完成しました。

川島道行は2016年10月9日に逝去し、中野と川島の2人によるBOOM BOOM SATELLITESの活動はそこで完全に区切られます。

果たせなかったラストライブを中野雅之が実現した

2人には、生前から「BOOM BOOM SATELLITESの20年の歴史にライブで幕を閉じたい」という希望がありました。

川島の体調から2人でそのステージを実現することはできませんでしたが、中野は2017年6月18日、新木場STUDIO COASTで「FRONT CHAPTER -THE FINAL SESSION-」を開催します。

BOOM BOOM SATELLITESとしてライブで歴史を閉じるという2人の希望を、中野が川島の残した音とともに実現した一夜でした。

2018年にはその公演を収めた映像作品も発売され、Sony MusicはこれをBOOM BOOM SATELLITESとしての「ラストプロダクツ」と位置付けています。

2026年、THE SPELLBOUNDとともにBOOM BOOM SATELLITESの名義が再び動き出した

BOOM BOOM SATELLITESの活動終了後、中野はプロデュースなどを続け、2020年12月にはTHE NOVEMBERSの小林祐介と新たなバンドTHE SPELLBOUNDを結成しました。

そこから数年を経た2026年、中野と小林はTHE SPELLBOUND × BOOM BOOM SATELLITESとして、BOOM BOOM SATELLITESの名義を再び動かします。

これは川島と中野の2人組が「再結成」したという意味ではありません。

Sony Musicは、中野と小林によるこの形を「BOOM BOOM SATELLITES名義を復活」と説明しています。

2016年に2人のBOOM BOOM SATELLITESは活動を終えましたが、2026年には中野と小林がその音楽を受け継ぐ形で、BOOM BOOM SATELLITESという名前から新しい音を作る段階へ進みました。

2026年9月2日には、THE SPELLBOUND × BOOM BOOM SATELLITES名義で「Brand New Drive」をリリースし、BOOM BOOM SATELLITES名義として10年ぶりの新曲となりました。

大学時代に川島の部屋で始まった名前は、2016年に一度その歴史を閉じ、10年後に中野が新しい共同制作者と鳴らす音の中で再び使われることになったのです。

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